「一無所知」を涅槃として誤認するという、この問題は、更に多くの説明を必要とするかも知れない。
涅槃は「離諸行」(visaṅkhāra)である。
諸行(saṅkhārā)は、すなわち、名色法及びその因であり、涅槃とは、すなわち、それらの不存在である。涅槃を了知する心は visaṅkhāragatacitta(離諸行に趣向する心)と言うが、しかし、それ自身は決して「離諸行」ではなく--己自ら涅槃を見るのは、猶、心行によって完成するものである。
例えば、仏陀または阿羅漢聖者が、果定に入り、かつ、涅槃を知見する心は、相応の心所を随伴する所の阿羅漢果心(arahattaphala-citta)である。
もし、阿羅漢果心が初禅において証得されたものであれば、当該の阿羅漢果心は、初禅阿羅漢果心に属し、合計37の名法を擁する。
この種の原則は、すべての、その他の道智と果智にも適用され、それらは、皆、相応する心所と共に生起し、かつ、皆、涅槃を所縁とし、かつ、涅槃はすなわち、寂静の楽を特徴とする。
聖者(ariya)は、果定に入りさえすれば、皆、涅槃を知見することができ、かつ、果智でもって、涅槃の寂静の楽を享受することができる。
故に、果定に入る者は、「一切、すべてが停止した。その時、私は一無所知であった」と言う事はできない。
果定に入る前、彼は定にどれほどの時間住むのかという決意をする、たとえば、一時間または二時間など。
定に住する期間、涅槃は、持続的に、寂静の楽(santisukha)として体験される。
故に、非常に明確に、もし、人が、一無所知であるならば、それは彼がすでに涅槃を証悟した、という事ではなく、実は、定力が依然として、非常に弱い事が原因である。
入出息似相が出現した時、諸々の禅支がなお、強度が不足している為、禅修行者の心が、なお、有分に堕ちる可能性がある。
ちょうど、歩き始めたばかりの幼児が、弱くて小さいが故に、自分一人で立つことができず、よく転ぶのと同じに、近行定の段階では、諸々の禅支はいまだ完全に展開する事ができないが故に、禅修行者は、有分に落ち込む可能性があり、それは涅槃では有り得ないのである。
有分に落ちない様にする為、かつ、更に一歩進んで定力を育成する為、あなたは、信(saddhā)、精進(vīriya)、念(sati)、定(samādhi)と慧(Pañña)という、この五根でもって、心を策励し、かつ、それをして、似相において固定せしめなければならない。
精進心でもって、心をして、似相を覚知せしめ、念でもって、心をして似相を忘れない様にし、智慧でもって、似相を覚知する。
安止定の段階において、諸々の禅支は、すでに、充分に展開されている。まさに、強健で、力のある人は、一日中立っていられる様に、禅修行者は、似相を所縁として、長時間、安止定の中において安住して、有分に落ちる事がないまま、完全に、かつ、不断に安止定の中において、一時間、二時間、三時間または更に長時間維持することができる。
この間、彼には音、声は聞こえない。
心は、その他の所縁に転向する事は無い。
彼は、似相以外、一無所知、となるのである。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>