南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』#33-27

如何にして色聚を見るか

引き続き、透明の身体の塊(または塊)の中の四界を識別し続けるならば、それは燦爛として発光する様になる。あなたがその透明の身体の塊(または塊)の中の四界を、少なくとも半時間、継続して専注する事ができるならば、それはすでに近行定に到達したのだと言える。この種の光を利用して透明な身体の塊の中にある微小な空間を探す事によって、その空界を識別することができる。あなたは、透明な身体の塊が粉々に粉砕されて小さな微粒子になるのを発見するが、それを色聚と言う<注186>。この段階に到達した場合、心清浄(Citta-visuddhi)と呼ぶ。あなたは色聚の分析を通して、更に一歩進んで、見清浄(Diṭṭhi-visuddhi)を育成することができる。これが、観禅の始まりである。

(定力の利益)

如何にして観禅を修習するか、という解説をする前、先に、我々は、純観乗者が証得する所の近行定、及び、止乗者が証得する所のジャーナが獲得することのできる実際の利益について、見ていくことにする。

観の修習をする時、識別する対象は非常に多いため、疲労が常に発生する。この様な状況が発生した時、最もよいのは休憩する事である。

《中部・二種尋経》の義注<注187>では、禅修行者が如何にして、ジャーナの中において休息するのかという、一つの例が挙げられている。

当該の義註がいう所では、戦場において、時々、戦士は疲労する。しかし、敵軍が強く盛んであり、矢が雨の様に飛んでくる時、戦士は塹壕に帰ってくる。塹壕の中では、彼らは、敵軍の弓矢の飛んでくる脅威から免れて、休息することができる。体力が回復した後、再度塹壕から離れて、戦場に戻る。ジャーナは、この塹壕の如く、観の修習の過程の中において、休息の場所とすることができる。ジャーナがなく、直接、四界差別から切り込む純観乗者は、近行定をもって、塹壕として、そこで休息することができる。

この二種類の情況において、禅修行者は、明晰な、心新たな状態でもって、観の修習の戦場に戻ることができる。

こうした事から、休息処が一か所あるという事は、非常に大きな利益となるのである。

次に、我々は、色聚の分析に戻って、如何にして観禅の修習をするのかを解説する。

<翻訳文責: 緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>