これは、欲楽の享受に沈潜し迷うことは、聖者の行為ではない、ということを意味している。
欲楽は、無益である。
それらは、世間的な利益を齎すことができる。
例えば、人間の快楽(楽しみ)、天界の快楽と梵天の快楽。
しかし、それらは、出世間の利益を齎すことはできない、すなわち、唯一、道智(maggañāṇa)と果智(phakla)を通してのみ得られる所の涅槃の楽(を得ることはできない)。
故に、仏陀は、最初の説法の時に、欲楽に沈潜し迷う者は、なお凡夫にすぎないと宣告した。
彼がいまだ菩薩であった時、彼もまた欲楽に沈潜し迷った、すなわち、王宮の中において、アソーダラーと共に生活したのである。当時、彼は一人の凡夫であった、というのも、欲楽を享受するのは、凡夫の行為であるが故に。
我々の菩薩がこの様であっただけでなく、一人ひとりの菩薩もまたこの様である。
ここにおられる聴衆の皆様の中に、多くの菩薩がおられる事と思う。あなた方に、どうかこの事をよく考えて頂きたい;
ここにおられる菩薩は、凡夫(puthujjana)であるか、それとも聖者(ariya)であるか?
私は、あなた方が、その答えを知っている、と考えるものである。