問4-3:もし、禅修行者が、修習の課程を完成させたものの、なお、道智と果智を証悟していない時に、彼の定力が退失したならば、観智もまた退失しますか?
死後、彼は悪趣(apāya)に生まれますか?
答4-3:彼の観智は、退失するかもしれない。が、しかし、この可能性は非常に小さい。もし、長時間修行しないのであれば、彼の止観(サマタ・vipassanā)は、徐々に弱まる。
ただ、その修行の業力は、依然として存在する。
パーリ経典の中において、関連する物語がある<注225>。しれはスリランカで発生した。
当時、約30名の比庫(南伝の男性出家者bhikkhu)とサーマネラ(sāmaṇera)は、カルヤーニー(Kalyānī)の塔寺を参拝した後、森林の小道から大通に出た時、一人の男性がこちらを歩いて来るのを見た。
彼は路傍の炭焼き場で仕事をしていて、満身灰だらけ、身には、同じ様な灰だらけの黄色の腰布を巻いているだけであり、まるで、その為、彼は、大きな木炭の様に見えた。
彼は一日の仕事を終えたばかりで、拾ってきた、半分燃えた木炭を背中に担いで、頭髪を背中の後ろになびかせ、小さな道から出て来て、比庫たちの前に立った。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>