問5-3:生死輪廻(saṃsār)は無始無終です。
そして、衆生は、無量で無辺です。故に、曾て、我々の母親であった衆生もまた無量で無辺です。我々は、一切の衆生は、みな、かつて、我々の母親であった事を思惟することを通して、どの様にして、慈しみを修するのですか?
我々は、一切の衆生は、みな、かつて我々の母親であった事を思惟する事を借りて、慈心ジャーナ(mettā-jhāna)に到達することはできますか?
答5-3:慈心の修習に関して、過去と未来は関係がなく、現在だけが、関係している。唯一、現在の所縁のみが、慈心ジャーナ(mettā-jhāna)を生じせしめることができるが、過去または未来の所縁ではない。
我々は、死者に向かって慈愛を散布しても、ジャーナを証得する事は出来ない。無尽の輪廻(saṃsāra)の中において、どの一人の衆生であっても、かつて、我々の父親または母親でなかったことはない、と思えるが、しかし、慈心を修習する事と、無尽の輪廻とは関係がない。故に、これは、かつての私の母『親知実見』とか、これは、かつての私の父親とかを、考慮する必要はない。
仏陀は《応作慈愛経》(Karaṇīyamettā Sutta)の中において、以下の様に指導した:
”Mātā yathā niyaṃputtamāyusā ekaputtamanurakkhe;
evampi sabbabhūtesu、
mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ”
意味は、母親が、自分の生命を犠牲にしてまで、一人子を保護する様に、比庫もまた、一切の衆生に対して、慈愛を散布せよ。
これは仏陀の教えである。
しかし、母親の心情だけに頼っては、ジャーナに趣く事はできない。
慈愛を散布する時に、「この人が、安穏であれ、幸せであれ」と思惟するならば、ジャーナは生じる。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>