南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』Knowing and Seeing#39-10

問5-3:生死輪廻(saṃsār)は無始無終です。

そして、衆生は、無量で無辺です。故に、曾て、我々の母親であった衆生もまた無量で無辺です。我々は、一切の衆生は、みな、かつて、我々の母親であった事を思惟することを通して、どの様にして、慈しみを修するのですか?

我々は、一切の衆生は、みな、かつて我々の母親であった事を思惟する事を借りて、慈心ジャーナ(mettā-jhāna)に到達することはできますか?

答5-3:慈心の修習に関して、過去と未来は関係がなく、現在だけが、関係している。唯一、現在の所縁のみが、慈心ジャーナ(mettā-jhāna)を生じせしめることができるが、過去または未来の所縁ではない。

我々は、死者に向かって慈愛を散布しても、ジャーナを証得する事は出来ない。無尽の輪廻(saṃsāra)の中において、どの一人の衆生であっても、かつて、我々の父親または母親でなかったことはない、と思えるが、しかし、慈心を修習する事と、無尽の輪廻とは関係がない。故に、これは、かつての私の母『親知実見』とか、これは、かつての私の父親とかを、考慮する必要はない。

仏陀は《応作慈愛経》(Karaṇīyamettā Sutta)の中において、以下の様に指導した:

”Mātā yathā niyaṃputtamāyusā ekaputtamanurakkhe;

evampi sabbabhūtesu、

nasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ”

意味は、母親が、自分の生命を犠牲にしてまで、一人子を保護する様に、比庫もまた、一切の衆生に対して、慈愛を散布せよ。

これは仏陀の教えである。

しかし、母親の心情だけに頼っては、ジャーナに趣く事はできない。

慈愛を散布する時に、「この人が、安穏であれ、幸せであれ」と思惟するならば、ジャーナは生じる。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>