翻訳『親知実見』#41‐4
我々は、一つの例をあげて、説明する:蝋燭、花またはお香を仏像に供養し、比庫に生まれ変わりたいと発願した、というこの状況において:
1)無明とは、「比庫」が、真実に存在しているという錯覚。
2)愛とは、比庫としての生命を貪欲に求め、渇愛する事。
3)取とは、比庫の生命に執着する事。
無明、愛、取という、この三者は、煩悩転輪(kilesavaṭṭa)を構成する心識の中において、見つける事ができる。
もし、あなたが、女性に生まれ変わりたいと発願したならば:
1)無明とは、「女性」が、真実に存在しているという錯覚。
2)愛とは、除詠としての生命を貪欲に求め、渇愛する事。
3)取とは、女性の生命に執着する事。
上記の例の中で、行(saṅkhāra)は、供養(しようという)善思(kusala cetanā)、業は、それらの業力である。この二者が、縁起を構成する所の、業輪転(kammavaṭṭa)の心の中に出現する。
あなたが、この様に、最近の過去における煩悩輪転と業輪転の名色法を識別することができたならば、次には、更に遠い過去にさかのぼって行く様にする。供養する前のいくつかの時間に遡り、かつ、同様の方法を用いて、名色法を識別する。
その後に、引き続き、少しばかり遡り、かつ、当該の識別の過程を繰り返する。
この種の方法を用いて一日前、一週間前、一か月前、一年前、二年前、三年前・・・等などの名色法を識知していき、最後には、あなたが今生において、生まれ変わった時の結生心(paṭisandhi citta)の名色法<注312>を識別するまで(当該の実践を続ける)。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>