<#42>シリーズは、中国語原文p293~p307の脚注の翻訳です。
<注307>=<法住智義釈>(Dhammaṭṭhitiñāṇaniddeso)(Ps.1.45-47)。
また、《清浄之道・説慧地品》(Paññābhūminiddesa)参照の事。
<注308>=パオ・セヤドーがここで述べているのは、観智の力である。それはすなわち、五取蘊を照見する能力である(《可食経》Khajjanīya Sutta)(S.A.3.79)。
彼が述べているのは、神通の属する所の宿住随念智(pubbenivāsānussati abhiññā)ではない。この神通は、あなたに以下のものが見える様にせしめる:
1)出世間法(lokuttaradhamma)と相応する所の諸蘊(khandhā)、すなわち、すでに、四道心と四果心の一を証悟した所の衆生の諸蘊
欲界または人類の五蘊);
2)五取蘊(upādānakkhandhā);
3)族姓、容貌、飲食、苦楽など;
4)姓名、種族などの概念法。
<注309>=1)無明。2)行。3)識。4)名色。
5)六処。6)触。7)受。8)愛。
9)取。10)有。11)生。
12)老、死、愁、悲、苦、憂、悩。
《大因縁経》(Mahānidāna Sutta)または《外道依処経》(Titthāyatana Sutta)(A.3.62)、<はじめに>中国語原文p49の引用を参照の事。
<注310>=「表3a:生死流転の中の縁起」中国語原文p305参照の事。
<注311>=方法は、<第四講 如何にして色法を識別するか>を参照の事。
<注312>=五蘊有世間において、名色は、識に依存して生起する。反対も、然り。中国語原文p24参照の事。
<注313>=「表1d:死亡と結生」中国語原文p300参照の事。
<注314>=問答3-12.中国語原文p174参照の事。
<注315>=これ以外に、非果報(avipāka)蘊がある。それらは、業によって生じた果ではなく、ある種の因(hetu)によって生じた果(phala)である。たとえば、心生色法。
<注316>=離心路:文字の上における意義は、「脱離心路」であり、また「離門(dvāravimutta)」とも言う。すなわち、「門において離脱する」である。説明に関しては、中国語原文p258及び、中国語原文p174の<注151>参照の事。
<注317>=この図表が示す通り、三種類の生存界のある一地(一つの場所)で死亡した後、引き続き、密接した形で、三界のその他の一地に生まれ変わる。しかしながら、ある種の人々は、「中陰」(antarābhava)の存在を主張する。それは、死亡心の生起した後、結生心の生起する前の、ある種の、存在状況であると、仮設されている。
この種の間違った見解は、《論事・中有論》(Antarābhavakathā)の中において、すでに論駁されている。当該の論では、この種の仮設は、仏陀の教導した三界の他に、また別の生存界があるのだと宣言している、と指摘している。この種の誤解は、異なる種類の不来聖者への誤読(誤解)から来ているし、また、短時間の餓鬼(peta)生命への誤解からも来ている。中国語原文p250問答5-8において、この事に関する説明がある。
<注318>=無想有情(asaññasatta)の死亡は、例外である。彼らの前世臨終の所縁は、遍相であり、名法への強烈な嫌悪を伴っている。彼らが結生する時、色法のみがあって、名法、結生心、死亡心または臨終心路はない。次の一生の結生心の所縁は、その無量の長きにわたる、以前の過去生の業、業相または趣相である。
《五論再復注》(Pañcappakaraṇa anuṭīka)”Paccayapaccanīyānulomavaṇṇanā” 第190節の解釈では、当該の原則は、無想有情界(その後、必ず欲界に生まれ出る)に適用されるし、また、無色界(その後、同等のまたは更に高度な無色界に生まれ変わるか、または欲界に生まれ変わる)にも適用される、という。
<注319>=未来がどの様に変化するか、という件に関して、中国語原文p52とその後に記載される内容を参照の事。
<注320>=生(jāti)は諸蘊であり、また、名色の顕現である。詳細は、《清浄之道・説慧地品》(Paññābhūminiddesa)(Vm.641)参照の事。
<注321>=仏陀は、二種類の方法によって、指導した:
通俗教説(vohāradesanā)と
勝義教説(paramatthadesanā)である。
縁起の12支の中、生と老・死は、通俗教説に属し、それらは、勝義教説の識、名色、六処、触、受の五支に相当する。
例えば、仏陀は、《大一有経》(Paṭhamabhava Sutta)の中において、生死流転の過程を教導している:
「アーナンダ、欲界果報と業が存在しないならば、欲有は、顕現することができるであろうか?・・・
色界果報と業が存在しないならば、色有は、顕現することができるであろうか?
無色界果報と業が存在しないならば、無色有は、顕現することができるであろうか」
(「できません、尊者」)
「そうである、アーナンダ。業は田地であり、識は種であり、愛は水分である。無明によって障蓋されている有情は、愛によって下界(欲界)、中界(色界)、上界(無色界)に結縛されて、識住立(viññāṇam patiṭṭhitaṃ)する。
この様にして、未来において、再有が生起する。」
<注322>=非阿羅漢と阿羅漢の二者の生命の中における果報:
過去世の業行が、当該の世の結生心及びその後に従って(生起する所の)心識の生起を引き起こし、同時に、名色、六処、触と受も生起する。
仏陀は《大因縁経》(Mahānidāna Sutta)の中において、以下の様に言う。
一期の生命の内、結生の時の名色と識の生起にのみ、遡って追跡できる:
「この生において、識別され得る所の、最も遠くで発生した輪転、それはすなわち、名色と識が一緒になって、相互に縁となりつつ、転起した所のものである。」(D.2.116)。
<注323>=非阿羅漢の生命の因:非阿羅漢は、無明を擁している。故に、受があり、受があることによって、愛と取があり、そのため、生命の業力が生じる。すなわち、業行である。その意味はすなわち、彼らは死後、結生心を生起せしめる。
<注324>=阿羅漢の生命の因:すでに無明がないが故に、愛と取もない。それはすなわち、未来の生命を引き起こす業力ーー業行がないことを意味している。このことは、彼らが死後、二度と再び結生心が生起することはない、という事である。それ以前においてゃ、五種類の果は、已然として、運用され、作用する。
<注325>=《大因縁経》(Mahānidāna Sutta)、《因縁品》(Nidānavagga)
<注326>=実際の例として、パオ・セヤドーは、仏陀が、過去世の不善業の為に、背中の痛み(苦俱行身識(dukkhasahagata kāyaviññāṇa))を体験した事を挙げる。中国語原文p378参照の事。