Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#43-6

問6-7:道果を証悟した聖者(ariya)は、もはや凡夫(puthujjana)に戻らない。これは正性定律(sammatta niyāma)である。同様に、授記を獲得した人は、菩薩道を放棄することはできない。これも正性定律である。

しかし、仏陀は、一切の法は、無常<注336>であると宣言している。これらの正性定律は、無常の法則と合致していますか?

答6-7:ここにおいて、あなたは、正性定律とは何か、恒常とは何か、を理解しなければならない。

業果の法則に従えば、不善業(akusalakamma)は、悪報を生じ、善業(kusalakamma)は、善報を生じる。これは業の定律(kammaniyāma)である。

この事は、善業と不善業が恒恒(nicca)であることを意味しているのであろうか?

この事を考えてみて欲しい。

もし、善業が恒常であるならば、如何の様に思惟してみる:

今、あなたは、仏陀の教導したアビダンマを聴聞しているが、これは聞法善業(Dammma-sāvana kusalakamma)である。

これは恒常であるか?この点を考えてみて欲しい。

もし、それが恒常でるならば、この一生の終わりまで、あなたは、ただこの一種類の業しかなく、その他の業は、ありえない。

あなたは、理解できますか?

善業は善報を生じ、不善業は悪報を生じる。これは自然法則である。しかし、だからといって、業は恒常であるということを意味しない。善思(kusalacetanā)と不善思(akusalacetanā)は業であり、それらは、生起するやいなや、即刻滅し去る。

それらは無常であり、無常である事が、それらの本質である。

しかし、業力ーー業果を生じせしめる所の、潜在的エネルギーーーは、猶、名色流の中において、存在するのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>