Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#43-9

もし、一人の菩薩が、この8項目の条件を具備しているならば、彼は、確実に、仏陀から授記を得ることができる。

我々の釈迦牟尼菩薩は、燃灯仏時代において、名を善慧(Sumedha)と言い、隠者であった。彼は、この8項目の素質を擁していたため、燃灯仏の授記を得たのである:<注339>。

「あなたは、四個の不可数(asaṅkhyeyya)と10万劫(kappa)の後に、一切知智を証悟する。名を果徳瑪という。」

授記は「必定である」ということの意味は何であるか?

授記は、それが改変できない、という意味で必定であるが、しかし、それが恒常である、ということを意味しない。

燃灯仏の名色法は、無常であり、善慧の名色法もまた、無常である。これは事実である。

菩薩が、いまだ一切知智を証悟していないのであれば、この業力、特に、彼のハラミツの業力は、消失することがない。

燃灯仏の話、すなわち、彼の授記もまた、改変することはなく、嘘ではなり得ない。

もし、それらの話が改変可能であるならば、授記は、本物ではない。

その時、もう一つ、別の問題が起きる。

すなわち、仏陀は嘘を言う、虚言有り、ということである。

仏陀は、上に述べた8項目の条件が同時に具備されているのを見て、授記を授ける。

例えば、一人の、経験豊かな農民が、一株の、各種の条件が整ったバナナの樹を見る時、あなたに、このバナナの樹は、四か月後に、結果するであろう、と告げるに違いない。

何故であるか?

というのも、彼は農業に精通しており、また、樹にある花と細い葉を確認してある(からである)。

同様に、一人の人間に、同時に、この8項目の条件が具備されているならば、仏陀は、彼が、一切知智の果を証悟できるであろと、見出すことが出来る。

こうして、彼は、仏陀から授記を受けるのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>