Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#43-12

問6-8:普通弟子が、止観(サマタ・vipassanā)の修習をして、縁摂受智、生滅智または行捨智まで到達した後に、死んだならば、彼は四悪趣に堕ちない。たとえ、放逸が原因で、彼の止観(の力)が退失しても、かつて修行した所の、止観の業力は、已然として存在する。

《入耳経》もまた、彼は迅速に涅槃を証悟する、と言う。<注341>。

それでは、セヤドーは、6月2日の問答の中において、なぜ、已に授記を獲得した菩薩(たとえ、彼が、修行によって、すでに行捨智に到達してあろうとも)、悪趣に堕ちる可能性がある、とお答えになったのでしょうか?<注342>。

どの様な経典に、これらの事柄が書かれていますか?

答6-8:これは、菩薩道と普通弟子の道が異なるためである。あなたは、パーリ聖典の《仏陀史》(Buddhavaṃsa)と《所行蔵》(Cariyāpiṭka)を参照することができる。

この二種類の道は、どの様に異なるか?

菩薩はすでに、仏陀の授記を獲得しているものの、しかし、その時の彼は、いまだハラミツが熟しておらず、一切知智は証悟していない。彼は、更に一歩進んでハラミツを育成しなければならない。

例えば、燃灯仏の授記を獲得した後、我々の釈迦牟尼菩薩は、引き続き継続して、四個の不可数と10万大劫の時間の長きにわたって、ハラミツを累積しなければならなかった。

授記を獲得した後から、後ろから数えて二番目の生の間において、菩薩は、過去の不善業が原因で、動物に生まれ変わったこともある。その時、彼は、それらの不善業を徹底的に打ち壊すことはできなかった。

故に、あれら不善業が熟した時、彼は、それらの果報から逃げる事ができなかった。これは正性定律である。

しかし、すでに縁摂受智、生滅智または行捨智に到達している普通弟子、彼らのハラミツは、道智と果智を証悟するには、充分に足りている。

その為、彼らは、今生または来生において、道果を証悟し、己自ら涅槃を見ることができる。

これもまた正性定律である。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>