問6-9:阿羅漢もまた、他人に授記を与えることができます。
ここで言う授記、その定義は、どの様なものでしょうか?
どの様な経典またはソースを読めば、この様な資料に出会うことができますか?
答6-9:《仏陀史》(Buddhavaṃsapāḷi)と
《本行》(Apadānapāḷi)とを、確認する事。
天眼(dibbacakkhu)智の内の、二番目の智ーー未来分智(Anāgataṃsa-ñāṇa)を具備する阿羅漢だけが、授記を与えることができる。
彼らは、数量の限定された未来生をのみ、見ることができるが、しかし、仏陀の様に、無数生(asaṅkhyeyya)または多くの劫(kappa)を見る事は出来ない。
問6-10:非想非非想処定(Nevasaññānāsaññāyatana samāpatti)の中において、観の修習はできますか?
どの様な経典または資料を見れば、これに関する回答が得られますか?
答6-10:如何なる禅定においても、観の修習は出来ない。
非想非非想処定もまた、一種の禅定である。
何故であるか?
というのも、観の修習の対象は、通常は、ジャーナを育成する為の対象とは異なるが故に。<注343>
我々は、ただ単一で、かつ、同一の所縁(例えば、入出息禅相または遍相)に専注する事を通して、禅定を育成するが、しかし、異なる所縁を観照する事を通して、観の修習をする。
例えば:入出息ジャーナの所縁は、入出息似相でるーーこれは概念法であり、究極法ではない。
しかし、観智の対象は、概念法ではなく、究極名色法及びその因であり、その中には、ジャーナ名法(例えば、初禅の34種類の名法、第二禅の32種類の名法、第三、第四禅と無色禅の31種類の名法)も含まれる。<注344>。
唯一、ジャーナから出定した後に、ようやく、ジャーナ心及び相応する心所に対して、観禅の修習を実践することができないのであるが、非想非非想処には、31種類の名法があり。
《中部・逐一経》<注345>では、この事に言及してある。
当該の經典の中において、仏陀は、シャーリプトラ尊者が、入流果を証悟した後の、15日間の禅の修習方法に関して、詳細に講述している。
例えば、シャーリプトラ尊者は、初禅に入り、出定後、初禅の34種類の名法の生・住・滅を逐一識別し、かつ、それらの無常・苦・無我を観照した。
彼は、この種の方法を用いて、無所有処禅まで識別し続けた。
これを逐一法観(Anupadadhamma vipassanā)と言うーー逐一に名法を識別するのである。
しかし、彼が、非想非非想処定に到達した時、その名法を、全体的にしか、観照することができなったが、これを聚思惟観(kalāpasammasana bhikkhavā)と言う。
仏陀だけが、非想非非想処禅の名法を逐一、識別することができる。というのも、それらは極めて微細であるためであって、たとえシャーリプトラ尊者の様な上首(上席)弟子であってさえも、それらを逐一、識別することはできないのである。