Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#47-10

問7-9:観の修習は、どの様にして、見を清浄せしめますか(diṭṭhivisuddhi)?観の修習は、どの様な煩悩(kilesa)を取り除くことができますか?

答7-9:究極名色法及びその因と、それらの無常・苦・無我の本質を見る前、禅修行者は邪見または間違った考えを持っている可能性がある。

たとえば、「これは男性、女性、母親、父親、己自身」等々。

しかし、彼が、明晰、明確に、究極名色法とその因、それらの無常・苦・無我の本質を見た後、この種の邪見は、暫定的にではあるが、取り除くことができる

何故に、取り除くことができるのか?

というのも、彼が見るのは、ただ究極名色法及びその因だけであるが故に;

彼はまた、それらが、生起するや否や、即刻滅し去るのを見るが、これはそれらの無常の本質である;

それらは常に、生・滅の圧迫・脅威を受けているが、これはおそれらの苦の本質である;

これらの名色法及びその因の中において、自我というものはないが、これはそれらの無我の本質である;

これこそが観智(vipassana-ñāṇa)であり、それは正見(sammādiṭṭhi)であり、邪見(micchādiṭṭhi)を取り除くことができる。

観智はまた、貪執(貪欲による執着)と我慢(我ありと言う傲慢心)等、邪見を伴う煩悩を取り除くことができる。

故に、禅修行者が、観の修習を実践する時、正見が現起(現象)する。

しかし、これは暫定的なものである。というのも、彼が禅の修行を停止した時、邪見は、不如理作意(ayoniso manasikāra)は再度生起するが故に。

彼は、再度「これは男性、女性、母親、父親、己自身」等々と認識し、貪執、我慢、瞋恚怨恨等の相応の煩悩もまた、再度生起する。

しかし、彼が再度観の修習を実践する時、この種の邪見はまた、再び消失する。

故に、観智は、ただ、暫定的に、邪見とその他の煩悩を取り除くことができるのである(と知ることができる)。

しかしながら、彼が、聖道と聖果を証悟する時、彼の道智(maggañāṇa)は、邪見とその他の煩悩を、段階を追って、徹底的に、断じ除くことができる。<注405>

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>