Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#47-15

問7-14:憤怒の心は、多くの代の時節八法聚(utuja ojaṭṭhamakakalāpa)を生じて、目に怒りの光を四方に照射せしめることができますか?

答7-14:いわゆる「心が光を生じる」という言い方は、一種の隠喩である。というのも、実際上、結生心(paṭisandhicitta)を除いて、心処(hadaya-vatthu)に依存して生じるすべての心は、みな、心生色聚(cittajakalāpa)<注411>を生じせしめることができるが故に。これらの色聚の中には、必ず色彩(vaṇṇa)がある。もし、心が、止の修習または観の修習の心に属するのであれば、それは非常に明瞭(明亮)なものである。

パーリ聖典、義注及び復注の中で、これらの事柄に関する提言が存在するが、しかし、それらは、瞋恚怨恨の心が生じせしめる所の、心生色法もまた、光が生じる、ということには言及していない。

問7-15:名色法を識別する心は、名色に含まれますか?それは智慧に含まれるのではないですか?

答7-15:そうです<注412>。あなたは、観智のすべての段階において、それを識別することができる。特に壊滅智(Bhaṅgañāṇa)の段階では。

《清浄之道》の中において、以下の様に言う:<注413>

”Ñātañca ñāṇañca ubhopi vipassati.”

所知(ñāta)と能知(ñāṇa)の二者を観照する。

「所知」(知るもの)とは、五蘊とその因を言い、観智によって了知されるべき対象である。

「能知」(知られるもの)とは、五蘊とその因を了知するーーすべての行法(saṅkhāra dhamma)--無常・苦・無我の本質を了知する所の、観智を指す。

観智は、智慧、観正見に属する。

観正見は通常、33または32個の名法と共に生起するが故に、それぞれ34または33個の名法があることになり、それらは「観智」と称される。それらは名法に属する。というのも、それらはみな所縁ーー諸々行法の無常・苦・無我の本質に向かうが故に。

なぜ、観智自身を無常・苦・無我として照見しなければならないのか?というのも、有る種の、禅修行者は、以下の様に問うか、または想う:観智自体は、常であるのか、無常であるのか、楽であるのか苦であるのか、我であるのか無我であるのか?この問題を解決するために、あなたは観の修習心自体を無常・苦・無我として照見しなければならない。特に、一つひとつの速行刹那の中の、観智を先頭とした34個の名法(を照見しなければならない。)

この他に、ある種の禅修行者は、己自身の観智に執着するかもしれない。彼らは、観の修習が巧みであり、かつ成功するが故に、驕慢になるが故に。これらの煩悩を予防し、取り除く為に、あなたは、観智または観の修習心自体を無常・苦・無我として観照しなければならないのである。<注414>

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>