翻訳『親知実見』#47-17
問7-18:もし、五蘊が無我であるならば、では、誰が仏法を開示しているのでしょうか?言い換えれば、もし五蘊が無我であるならば、セヤドーが仏法を開示している、という状況は生じない。故に、五蘊と自我(己自身)とは、関係があるのではないでしょうか?
答7-18:二種類の真諦がある:
世俗諦(sammutisacca)と勝義諦(paramatthasacca)である。
あなたは、この二種類の真理を明確に区別しなければならない。世俗諦で言えば、仏陀は存在し、セヤドーは存在し、父親は存在し、母親は存在する;しかし、勝義諦では、仏陀はいないし、セヤドーもいないし、父親はいない、母親はいない。
もし、充分に強い観智があるならば、あなたは、この事を、己自ら見ることができる。もし、あなたが観智でもって、仏陀を観照するならば、あなたは究極名色法を見ることになり、それはすなわち、五蘊であるが、それらは無常・苦・無我であって、所謂「己自身、我(自我)」というものはない。
同様に、もし、あなたが、観智でもって私、父親、母親などを観照するならば、あなたが見えるものは、同じく究極名色法、すなわち、五蘊であり、それは同じく、無常・苦・無我であり、所謂「私(自我)」というものは、ない。
言い換えれば、仏陀はいない、セヤドーはいない、父親、母親等などはいないのである。
五蘊及びその因は、行法と呼ぶ。故に、行法が行法を開示しており、時には、涅槃を開示することもあるが、しかし、根本的に、所謂「私(自我)」というものは、ない。
こうしたことから、我々は、関係がある、とは言えないのである。
例えば、もし、ある人があなたに問うたとする:
「うさぎの角は、長いか、短いか?」
あなたはどの様に回答するか?
または、彼はこの様に質問する:
「亀の身体にある毛は、黒いかまたは白いか?」
あなたはどの様に回答するか?
もし、「私(自我)」が、まったくもって不存在であるならば、「私(自我)」と五蘊の間の関係性を問う事はできない。たとえ仏陀であっても、この類の問題には、答えられないであろう。
何故であるか?
仮に、あなたが、うさぎの角は長いと言えば、あなたは、うさぎに角がある事を認めたことになる;仮に、あなたが、うさぎの角は短いと言えば、あなたは、うさぎに角がある事を認めたことになる。
次に、あなたが、亀の毛は黒いと言えば、あなたは、亀には毛がある事を認めたことになる。あなたが、亀の毛は白いと言えば、あなたは、亀には毛がある事を認めたことになる。
同様の理屈で、もし、仏陀が五蘊と「私(自我)」は関係がある、と言ったならば、それは、彼が「私(自我)」というものが存在する事を認めたことになる。
もし、彼が、五蘊と「私(自我)」は関係がない、と言えば、それもまた、「自我」が存在することを認めたことを意味する。
これが、なぜ、仏陀もまた、この類の問題に、回答をしないのか、という「理由」である。
こうしたことから、我々は、あなたに対して、修行して、観禅の段階にまで到達する様、チャレンジする事を提案する。
その時初めて、あなたは、この種の邪見を取り除くことができる。