翻訳『親知実見』#49-8
「これが戒(sīla)、これが定(samādhi)、これが慧(Paññā)である。
戒の遍修による定は、大果報あり、大功徳あり;
定の遍修による慧は、大果報あり、大功徳あり;
慧の遍修による心は、完全に
欲漏(kāmāsavā)、
有漏(bhāvāsavā)、
見漏(diṭṭhāsavā)、
無明漏(avijjāsavā)の諸漏の中から解脱することができる。」(D. 2.186)
我々一人ひとりは、皆心を有している。
もし、戒を基礎として、次に、己自身の心をコントロールするならば、この専注する心の力は非常に奇妙なものであって、当該の心は、究極色法を透視することができる。
色法は、原子より更に微細な色聚の方式によって生起するが、我々の身体は、すなわち、これらの色聚によって構成されている。
専注の心は、これらの色聚を、分析することができるだけでなく、専注の心は、究極名法をも透視することができる。
専注の心は、それらの因を透視することができるし、専注の心は、また、名色法及びその因の生起、壊滅の本質を透視することもできる。
この種の観智を智慧と言う。
この種の智慧の進展は、戒を基礎とした禅定に依る。
専注の心と智慧は、共に、心志力(心の志向性のよる力)であり、この種の心志力は、すべての執着、すべての煩悩とすべての痛苦を断じ除いて、涅槃の証悟へと導き向かわせることができる。