ある人が、徳行無く、その心は不清浄で、執着、瞋恚に満ち、業果の法則を信じず、正当でない方法で獲得したものを、徳行のある人に布施したならば、この種の布施は、受者の因によって、浄化される。
義注は、漁夫の例を挙げている。
一人の、スリランカのカルヤーニ(Kalyānī)の河口に住んでいる漁夫が、かつて、三度、一人の、すでに阿羅漢を証悟した大長老に食べ物を供養した。
臨終の時、漁夫は、大長老に対してなした所の、供養を思いだし、心中に、天界の美しい風景が現起(現象)した。
そして、この世を去る前に、親戚たちに言った:
「あの大長老が私を救ってくれた!」
そして、死後、彼は天界に往生した。
この種の情況において、漁夫は徳行無く、品性は劣悪であったが、しかし、布施の受者が、有徳の人であったため、この布施は、受者の因により浄化されたのである。
徳行の無い人で、その心が不清浄で、執着、瞋恚等で充満していて、業果の法則を信じず、不当に得たものを、一人の徳行の無い人に布施する時、この種の布施は、施主をも、受者をも因とせず、浄化されない。
義注では、一人の猟師の例を挙げている。
その猟師は、死後、餓鬼趣に生まれ変わったが、彼の妻が、彼の名義でもって、一人の戒徳のない、品性が下劣な比庫に布施をした。その為、その餓鬼は、「サードゥ」(Sādhu)という随喜の言葉を述べることができなかった。
何故であるか?
というのも、施主も徳行の無い、品性が下劣な人間であるーー彼女は猟師の妻として、夫と共に動物を殺した;
また同時に、彼女が布施したものは、不当な手段で獲得したもの、すなわち、動物を殺して得たものであった;
彼女の心は、不清浄に満ちていた。
というのも、彼女が(己自身の心が不清浄である事)を知っているならば、夫と共に、動物を殺すという行為をしないが故に。
彼女は、業果の法則、及びその果報に関して、充分に強い信心(=確信)がなかった。もし、彼女が、業果の法則を、深く信じるならば、殺生はしないはずである。
受者も徳行が無く、品性が下劣である時、この種の布施は、施主の因にもよらず、受者の因にもよらず、浄化されることがない。
彼女は、同じ方法によって、三度、布施を行ったが、しかし、何等のよい結果が生まれることはなかった。
その餓鬼は叫んだ:
「一人の戒徳のない人間が、三度、私の財産を盗んだ。」
その後、猟師の妻は、一人の戒徳のある比庫に食べ物を供養した所、当該の布施は、浄化することを得た。
その時、餓鬼は随喜して、「サードゥ」と言う事が出来たため、餓鬼趣から離脱することができた。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>