Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#51-16

リトリート期間における布施 

今、(台湾の)壱同寺において、多くの比庫と比庫尼が、貪、瞋恚、痴を徹底的に断じ除く為に、サマタ・vipassanā(止観)を修習している。彼らは皆、戒徳を擁している。故に、我々は以下の様に言うことが出来る:

ここには、今、布施するに値する者がいる;

施主は徳行があると思える;

彼らの心もまた、清浄で汚れがないと思われる;

彼らによる布施のしなものは、正当な方式で獲得したものである;

彼らは、三宝に対して、業果の法則及びその果報に対して、充分に強い信心(=確信)を擁していると思える;

彼らは、布施をする前に、喜悦がある;

布施をする時に、心に歓喜がある;

彼らは、布施をした後、満足した。

こうした事から、我々は、この二か月の間に実施された布施は、仏陀の期待に沿うものであり、それらは崇高な布施である、と考えるものである。

施主の心願 もし、施主が、未来において、善の果報を得たいと願うならば、この善業は、必ずや、彼らの希望に沿うものとなるであろう。

何故であるか?

仏陀は《布施再生経》(Dānūpapatti Sutta)の中において、以下の様に言う:

”Ijjhati bhikhave sīlavato cetopaṇidhi visuddhattā.”

「比庫たちよ。持戒者の心願は、〔戒〕清浄によって、達成される。」(A.8,35)

故に、徳行の有る者の善業は、彼の心願を達成させることができる:

もし、彼が、正自覚仏陀になりたいと発願するならば、彼は正自覚仏陀になることができる。

もし、彼が、独覚仏になりたいと発願するならば、彼は独覚仏になることができる。

もし、彼が、上首(上席)弟子(aggasāvaka)になりたいと発願するならば、彼は上首弟子になることができる。

もし、彼が、大弟子(mahāsāvaka)になりたいと発願するならば、大弟子になることができる。

もし、彼が、普通弟子(pakatisāvaka)になりたいと発願するならば、彼は普通弟子になることができる。

しかし、これもまた、彼のハラミツが熟して初めてその様な結果が齎されるのであって、ただ発願するだけでは、上に述べた、各種の菩提(bodhi)を成就するには、足りないのである。次にまた:

もし、彼が、次の一世において、人間社会における楽しみを獲得したいと希望するならば、彼は、人間社会における楽しみを得ることができる。

もし、彼が、天界に往生したいと願うならば、彼は、天界に往生することができる。

もし、彼が、梵天界に往生したいと願うならば、この善業によって、彼は、梵天界に往生する助縁とすることができる。

何故、この様に言うのであるか?

もし、彼の布施が、上に述べた通りの、あれらの条件を具備しているのであれば、すなわち、布施の前、布施する時、布施した後、彼の心は、喜悦で充満しており、清浄で、汚染なく、楽しいものであるならば、かつ、布施のしなものと受者を所縁として、受者が彼の心の慈(mettābhāvanā)の修習の所縁となるならば、彼の、受者に対する慈心は、強大なものになる。

もし、彼がその時、慈心禅を修習するならば、彼の慈心ジャーナは、彼の死後、彼をして、梵天界に往生せしめるであろう。

この様に、彼の布施は、彼が梵天界に往生する為の、助縁となる。

こうしたことから、もし、施主が、死後、梵天界に往生したいと願うならば、彼は、ジャーナを証得するまで、慈心を修習しなければならない。

もし、彼が、すでに、慈心ジャーナに到達しており、かつ、食べ物を供養するのであれば、彼の善業は、彼が梵天界に往生する為の、殊勝で、また極めて力のある助縁になるものである。

故に、もし、あなたが、未来において、好い果報を得たいと願うのであれば、あなたは、ジャーナを証得するまで、慈心を修習しなければならない。

人の楽しさ、天の楽しさ、梵天の楽しさという、三種類の楽しさの中において、梵天の楽しさが、最も高等である。

どの様な世間の楽しさをもってしても、梵天の楽しさと比べられるものはない。

31界の中において、それは、最も殊勝な楽しさなのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>