南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』#51-17

最も殊勝な世間的布施

これこそが、本講話の始めに言及した所の、一番目の布施、すなわち、大果報を齎す布施である。

あなたは、この種の布施が好きであろか?もし、そうであるならば、以下の《布施分別經》から引用した偈頌を聞いて頂きたい:

”Yo vītarāgo vītarāgesu dadāti dānaṃ

Dhammena laddhaṃ supasannacitto

Abhisaddahaṃ kammaphalaṃ uḷhāraṃ

Taṃ ve dānaṃ āmisadānānamagganti.”

「もし、阿羅漢が阿羅漢に布施する時、如法によって得たしなもの、及び浄信の心により、業の果報の広大なるを信じるならば、これは、最上の世間施となる。」

この様な状況において、施主は、四種類の要素を擁している:1)施主は阿羅漢である事。

2)施主の布施したしなものは、正当な方式で獲得したものである。

3)施主の心は清浄で、汚染のない事。

4)施主が、業果の法則、およびその果報に対して、充分に強い信心(=確信)を擁している事。

ただし、五番目の要素もまた、必要とされる。すなわち:

5)受者もまた阿羅漢である事。

仏陀は、以下の様に言う:

この種の布施は、世間的布施の中においては、最も殊勝な布施である。すなわち、一人の阿羅漢が、もう一人の阿羅漢に対して布施をするのである。彼は、この種の布施が、最も殊勝である、と讃嘆する。

何故であるか?

この種の布施は、如何なる果報をも生じることがない。

何故であるか?

施主は、すでに、無明と生命への一切の執着を断じ除いているが故に。

業、すなわち、行(saṅkhāra)の主因は無明(avijjā)と愛(taṇhā)である。この種の布施の中において、行とは、布施を受者に供養する善行の事を言う。しかし、この種の行は、如何なる果報をも生じる事がない。というのも、それには、支持因が欠けているが故に:無明もなければ、愛もないが故に。

もし、一本の木の根が、すでに、完全に、破壊され尽くしているならば、如何なる果実をも生じることがない。同様に、阿羅漢の布施は、どの様な果報をも生じることがない。というのも、彼はすでに、徹底的に、無明と愛の根を、断じ除いているが故に。

《経集・宝経》(Ratana Sutta)の中において、仏陀は以下の様な偈頌を誦した:

”Khīṇaṃ purāṇaṃ nava natthi sambhavaṃ、

virattacittā’yatike bhavasmiṃ;

Te khīṇabījā avorūḷhichandā、

nibbanti saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ、

etena saccena suvatthi hotu.”

已尽旧者新不生

(旧者は尽きて、新者は生じない)

於未来有心離染

(未来に於いて、心は染を離れる)

彼尽種子<注429>不増欲

(種子は尽きて、欲の増す事はない)

諸賢寂滅如此灯

(諸々の賢者は、この灯の様に寂滅する)。

此乃僧之殊勝宝

(これはサンガの殊勝な宝)

以此実語願安楽!

(この真実語をもって願う、安楽のある事を!)

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>