最も殊勝な世間的布施
これこそが、本講話の始めに言及した所の、一番目の布施、すなわち、大果報を齎す布施である。
あなたは、この種の布施が好きであろか?もし、そうであるならば、以下の《布施分別經》から引用した偈頌を聞いて頂きたい:
”Yo vītarāgo vītarāgesu dadāti dānaṃ
Dhammena laddhaṃ supasannacitto
Abhisaddahaṃ kammaphalaṃ uḷhāraṃ
Taṃ ve dānaṃ āmisadānānamagganti.”
「もし、阿羅漢が阿羅漢に布施する時、如法によって得たしなもの、及び浄信の心により、業の果報の広大なるを信じるならば、これは、最上の世間施となる。」
この様な状況において、施主は、四種類の要素を擁している:1)施主は阿羅漢である事。
2)施主の布施したしなものは、正当な方式で獲得したものである。
3)施主の心は清浄で、汚染のない事。
4)施主が、業果の法則、およびその果報に対して、充分に強い信心(=確信)を擁している事。
ただし、五番目の要素もまた、必要とされる。すなわち:
5)受者もまた阿羅漢である事。
仏陀は、以下の様に言う:
この種の布施は、世間的布施の中においては、最も殊勝な布施である。すなわち、一人の阿羅漢が、もう一人の阿羅漢に対して布施をするのである。彼は、この種の布施が、最も殊勝である、と讃嘆する。
何故であるか?
この種の布施は、如何なる果報をも生じることがない。
何故であるか?
施主は、すでに、無明と生命への一切の執着を断じ除いているが故に。
業、すなわち、行(saṅkhāra)の主因は無明(avijjā)と愛(taṇhā)である。この種の布施の中において、行とは、布施を受者に供養する善行の事を言う。しかし、この種の行は、如何なる果報をも生じる事がない。というのも、それには、支持因が欠けているが故に:無明もなければ、愛もないが故に。
もし、一本の木の根が、すでに、完全に、破壊され尽くしているならば、如何なる果実をも生じることがない。同様に、阿羅漢の布施は、どの様な果報をも生じることがない。というのも、彼はすでに、徹底的に、無明と愛の根を、断じ除いているが故に。
《経集・宝経》(Ratana Sutta)の中において、仏陀は以下の様な偈頌を誦した:
”Khīṇaṃ purāṇaṃ nava natthi sambhavaṃ、
virattacittā’yatike bhavasmiṃ;
Te khīṇabījā avorūḷhichandā、
nibbanti saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ、
etena saccena suvatthi hotu.”
已尽旧者新不生
(旧者は尽きて、新者は生じない)
於未来有心離染
(未来に於いて、心は染を離れる)
彼尽種子<注429>不増欲
(種子は尽きて、欲の増す事はない)
諸賢寂滅如此灯
(諸々の賢者は、この灯の様に寂滅する)。
此乃僧之殊勝宝
(これはサンガの殊勝な宝)
以此実語願安楽!
(この真実語をもって願う、安楽のある事を!)
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>