翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(2-21)
この例では、那先比丘尊者は、何をもって世俗諦と言い、何をもって究極諦と言うのか、を説明したのである。
世俗諦は、見かけ上は恒常不変の様に見えるけれども、しかし、真正なる究極の実質を擁せず、それは更に五蘊ーー色、受、想、行、識に分解する事ができるが、この五蘊は、純粋に、ただただ、生・滅法に過ぎない。
禅宗では以下の様に言う:
「看山是山、看山不是山、最後看山乃是山」
(山は山に見えて、また、山は山に見えなく、
しかし結局は山である)
もし、我々が、究極諦と世俗諦を理解するならば、上記の文言の意味が分かる。
《金剛経》ではまた、非常に多くの世俗諦と究極諦の観念を説明している。
例えば:
「似相非相」
「不可以32身相得見如来」
(如来を、32に分けた身体の相、その様な身体の相があると思って見てはならない)」
身体の相は、根本的に存在しない。
存在するのは、唯一、究極法の生・滅法だけなのである。
(2-22につづく)
★句読点は中国語原文を優先尊重。
<願以此功徳、早日証得涅槃楽>
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>