一年ほど前、老人向け体操教室に参加する様になって、
ある老人(女性)と知り合いました。
彼女は、私が尼僧であるのを知って
「仏教の本質とは何ですか?」
と聞いてきました。
私は
「それは無常・苦・無我です」
と答えながら、嬉しくなりました。
これで、原始仏教を理解する人が一人増え、結果、人生の喜怒哀楽を離れ、苦界を離れることができる人が一人増えるかもしない、と思ったのです。
しかしながら、一年たってみて、彼女は、原始仏教にこれ以上の興味を示さない・・・この間、これはと思うテーラワーダ仏教の資料を幾つか、差し上げましたけれど、何の反応もありませんでした。
その内、好きなのは親鸞上人で、愛読書は「歎異抄」らしい(笑)という事が判明し、とてもがっかりしました。
そして、私は、心を静かに、安般念をしながら、一年前の己自身の心の動きを観察してみました。
そう、自分が
「この人は原始仏教が好きかもしれない。
脈ありそうだ、法友、道友になってくれるかも!」
と、何の根拠もなくそう判断し、彼女に執心したのが、間違いの元でした。
私も、熱心なクリスチャンに出会ったら、興味本位で
「キリストって何を教えたのですか?」
と問うかもしれない。一種の社交辞令ですよね。
彼女に出会って、法友に出会った様な気分になった時の、己の心の高ぶり、それは、己自身が、己自身の心を守らなかった、己自身の落ち度。
そう分かると、心は、すっきりしました。
台湾の釈従信尊者(注1)がおっしゃっていた
弟子をとってはならない。」
の意味がよく分かります。
究極諦、アビダンマは、多くの人には、縁薄く、理解不能なのですから。
1980年ころ、台湾において大乗仏教を批判し、
〈本師釈迦牟尼仏に帰れ〉と主張した、台湾における原始仏教運動の先駆者。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay般若精舎>