先日、天台宗の尼僧さんである寂聴さんが亡くなられました。それを受けて、ある日の(老人の)集まりで、
Aさん(女性)「私は、寂聴さんの事、嫌い」
Bさん(男性)「俺も。生き方が何だか・・・」
私「私は、好きも嫌いもないです。
会った事がないので、好きだとか、嫌いだとかまでは・・・」
「ただ、彼女の説法は、私のとは、180度異なります。
私は、あんな風な、説法はしないです」
「でも、彼女の説法は人気があって、結構な数の人々が集まる訳で、それは何故でしょうかねぇ・・・」
と言いました。
彼女は、《恋愛は業であり、ある種、雷に打たれた様なもの。誰も避けられないし、避ける必要もないし、老人でも、堂々と恋愛すればいい》
と言っていると、私は、女性週刊誌に載った彼女の説法から、この様に理解しています(勉強不足で、誤解ならすみません)。
2600年前、出家して修行する事を大いに勧めた
ゴータマ仏陀は、【恋愛は不可抗力】などと言うでしょうか?
ゴータマ仏陀は言いました。
★業を乗り越える為に、32身分の修行をしなさい。
修行者が、禅定に入って、身体を、これは心臓、これは肺、これは腸、これは大便と観察する修行で、他人の身体もこの様に観ていきます。
恋愛できます?
★業を乗り越える為に、不浄観を修行しなさい。
不浄観は、ゴータマ仏陀の時代はお墓に行って、死体が腐っていくのを観察したそうです。
現代では、火葬ですから、この様な修行はできませんが、修行者は、禅定に入って、涙や鼻汁、尿や便、頭髪、フケ、皮膚、皮膚上の油脂などを、汚いもの、として省察と観察をします。
恋愛できます?
★業を乗り越える為に、白骨想の修行をしなさい。
禅定に入れる修行者は、己自身の骨の観察をします。
己自身の骨を見ることのできる修行者は、
【骨、白い、不浄】、【骨、白い、不浄】
と観察を続けます。他人の骨も同様に観察します。
恋愛できます?(注1)
ゴータマ仏陀はなぜ、色々な、不浄の修行を勧めたのでしょうか?
それは、我々が、有為法という名の、構造的苦界において輪廻する苦しみから、離脱する為である、と私は思います。
《天界(有為法)や涅槃(無為法)という、清らかで安楽な世界があるのに、貪・瞋・痴にまみれた地球世界に生まれることはない。人々よ、真の幸福を目指せ!》
私は、ゴータマ仏陀の教えを、この様に理解しています。
注1=上に紹介した瞑想は、すべて、サマタ瞑想であって、vipassanā ではありません。
禅定に入った修行者が、対象を心眼、慧眼で観察しているとはいえ、観察対象の物質が、いまだ、塊に見えている時は、サマタ瞑想です。
色法(+心法)の観察、すなわち、心眼、慧眼でもって、素粒子(クォーク)とcitta の無常(刹那生滅)・苦(不円満性)・無我(自性)が観えた時、それは vipassanā(観の瞑想)です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>