Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~忍辱

楽しいはずの、クリスマスの雰囲気が、一気に、吹き飛んでしまいました。

才能ある、若くて美しい女優さんが一人、札幌のホテルで、亡くなられました。

どんなに苦しい事があっても、死んではいけない・・・

未来ある、若い方々に、私はそう言いたいです。

私は3歳の頃に、《自分は輪廻している》 という事に気が付きました。

私を生んだ母も、父も、兄弟姉妹も、みなこの、仮の宿に、臨時に集っているだけだ、と3歳で気が付いたのです・・・

前世は男性だったので、今回女性に生まれて、少々困惑もしました。

3歳で「う~~ん、女性って、どういう風に振る舞えば、

社会に受け入れられるのかな?」などと、悩んだり、

「母の名前は○○、父の名前は△△、

と・り・あ・え・ず、覚えておく事!

この家にいる間は、必要だから!」

な~んて、考えていたのですから(笑)。

私が9歳くらいの時、継母が来てから、家が暗くなりました。

私はこう思いました

「わがままで、きつい性格の継母がやってくる様な家に生まれた自分が、馬鹿だった (自分は、先見の明に欠けている)」。

そして、力のない女性は、金のある男性にくっつかないと生きていけない時代、自立できない女性の哀れを感じて、彼女の為に泣いたものです(父は、後々没落しますが、当時は事業に成功した実業家でした)。

そういう私も、ダライ・ラマ猊下が言う

《「忍辱」は人生で最高の宝物》

というアドバイスを、長い間、理解する事ができませんでした。

年を取った今、忍辱の大切さが、よく分かります。

私の理解では、忍辱は、<ただ一方的に我慢せよ>

という意味ではありません。

人からいじわるをされた、気の合わない人と一緒に仕事をしなければならない等々、生きていれば色々嫌な事が起こりますが、この時、忍辱=心を冷静にして、辛抱しながら、安般念(息を観る瞑想)をやっていると、色々なことが分かってきます。

<いじわるをされた>と思っているのは、実は、自分の誤解で、相手は善意で話かけてくれていた、とか、または、自分が先に相手を嫌って、その気分を露骨に発出していたとか、また、気の合う仲間、愛するに値いする人に出会うのは至難の業で、人は、この苦海に、一人で生まれてきているとか、冷静になると、人生の真相が、分かってきます。

この世は、一方的に他人が、全部悪くて、一方的に自分が、全部正しい、という事はない、ことも分かってきます(すべて、業<注1>または、人と人の、相関関係なのですよね)。

忍辱は、嫌いな人を好きになれ、イエスマンになれと、無理難題を言っているわけではありません・・・

虚心に忍辱していると、嫌いな人との距離が、うまくとれる様になります・・・

私は、<36計逃げるに如かず> が、執着しない生き方と通底していて、秀逸だと思っています(ここは逃げた方がいいか、逃げない方がいいか、ケース・バイ・ケースだと思います)。

嫌な出来事に対して、忍辱(忍耐、自制)し、並行して、座禅・瞑想していると、自分の輪廻を知り、自分の業を知る事ができます。

若い方々には、忍辱の上に座り、サマタ・vipassanā 

を実践して、100年の苦海を、乗り切って頂きたいと思います。

注1=業は、簡単に言えば、(長い輪廻の間に身についた)心の癖と、その癖が原因で生じる所の事件や、否応なく出会う事柄(善業善果、悪業悪果)。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/

Paññādhika Sayalay 般若精舎>