ある種の人々は、この境地に到達すると、好奇心が生まれて、(禅相を)弄びつづけ、結果、禅相が消え失せてから、後悔する。
禅相を弄ぶ時、心は専注ができなくなり、定力は消失し、禅相もまた、それにつれて、見えなくなってしまう。
というのも、禅相は、定力によって生じるものであるが故に。
定力が安定している時にのみ、禅相の消失を免れる事ができる。
もし、禅相が消えて見えなくなったならば、引き続き、継続して呼吸に専注するならば、必ずや、禅相は、再度出現する。
故に、平捨の心でもって、修行しなければならない。
禅相の影響を、受け続けてはならない。
ある種の人々は、他人と比較するのが好きだ。
ひとたび、禅相が出現しないとなると、悲しく思い、故に、修行が疎かになる。
平捨の心でもって、(呼吸を)観ずる必要がある。
(禅相が)あっても良く、なくても良い。
(己の責任は)呼吸を観じつづける事、それだけである。
(3-112につづく)
<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>