先日、友人と Line していましたら、友人から
《あなた、自由奔放だわね》
と言われました。
若い内に結婚。家庭を持ち、二人の子供がいながら、
出張の多い中国語通訳(フリーランス)を職業とし、
30歳過ぎた頃から単身、タイへ、テーラワーダ(原始仏教)の勉強に行き、あげくに、緬甸(ミャンマー)の
パオ森林僧院で出家した私への、褒め言葉なのでしょう。
ただ、私は自分の事を、その様(自由奔放)には、思わないですね。
3歳で、「私は輪廻している」と気が付き、5歳の時に
<お釈迦様> という言葉を一言聞いだだけで、感動(緊張?)の余り、遊ぶのを止めて、その場で直立不動、フリーズしていた私にとって、
『ゴータマ仏陀は、何を悟り、何を教えたのか』
を究明する事が、一生のライフワークになったのは、極々、自然の事でしたから・・・タイや緬甸の森林寺院で、サマタ・vipassanā の修行する事は、私にとっては、至福の時間でした・・・日本の大乗仏教界に絶望して、一時期、転向して、マルクス主義を勉強していた時もありましたが~笑。
中国人の知人が、そんな私を見て、
「君は瀟洒<xiaosa>だ」
と言ったことがあります。
日本では、「瀟洒」は、建物があか抜けて素敵な事を言いますが、本来の意味は、人の性格が
「爽やかである」「さっぱりしている」「おおらかである」事。
私が、家庭内の、妻や母親役のみに埋没せず、通訳の仕事の合間に、タイや緬甸で、仏教の勉強をしている事を指して、その様に言ったようです。
私としては、仏教の勉強の為に、タイや緬甸に行く事は、それほど大した事でもなく、無意識に、または意識的にも、【朝に道を聞かば・・・】を実践しただけですけれど。
「君は瀟洒<xiaosa>だ」
と言われると、ちょっと嬉しい。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay>