南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

マハーカルナー禅師の矛盾-3

4月24日のブログにて

【マハーカルナー禅師の矛盾-2】

という題で、禅師に関連する文章を書きました。

言葉足らずが原因で、読者の方々に誤解されて、炎上するのを避けたい為に、文章が少々、くどくなった様ですが、ご容赦下さい。

私は、禅師が日本に帰国した、確か直後の事と思いますが、相談事があって、松戸で会った事があります(私に、二、三の用事があって、九州から上京しました)。

禅師が指定したのは、松戸の公民館の一室でした。

男性の比丘と、女性(在家でも、サヤレーでも)が、一対一で同じ屋根の下、一つの部屋の中にいてはならない、という戒律があるため、禅師は女性のお弟子さんを、遠くから呼びよせ(東京の西の端から来たと言っていました)、禅師+女性二名、という形で、公民館の小部屋で、小一時間お話しました。

相談の内容は、

<私は、クムダセヤドーの下で、再度の出家をしたいが(正確には三度目)、九州で一人暮らしをしている身としては、金銭不所持、買い物不可の、10戒では生活できないので、クムダセヤドーに戒律の条項を減らして貰う様に、願い出てもよいものか、どうか?>

<出家の比丘(227戒)、サヤレー(10戒の場合)は、クレジットカードを使用できるか?>

という様なものでした。

その後、クムダセヤドーは、サーマネーン(沙弥10戒)とは異なり、サヤレーなら、8戒でもよいが、慈悲9戒なら尚良い、とおっしゃって、私は現在、慈悲9戒のサヤレーを拝命しています(8戒の上に、常に慈悲の心を忘れない、という一条を上乗せしたのが、慈悲9戒)。

ですから、禅師は、出家の比丘は、女性と室内で一対一になってはならない事は、百も承知、千も承知。

また、各種の事情で、致し方なく、比丘と女性が一対一で、一つの部屋で、夜を過ごさざるを得なくなったならば、比丘は、身体を横臥させてはならず、座ったまま、眠らないまま、一晩を過ごす事、という戒律があるのを、タイの僧侶から聞いたことがあります。

半月に一度、真夜中に、パーリ語で、227条を朗々と誦する事が義務である所の、具足戒比丘の禅師が、この事を知らないはずがありません(私は、タイの森林僧院で、座禅・瞑想の後、そのままボーっと座っておりましたら、比丘方による、パーリ語戒律の詠誦が始まり、在家の身でそれを見ておりました。荘厳で清浄、素晴らしいものでした。もっとも、在家が遅くまで坐禅堂に残っていた事を、後で叱られましたけれど~笑。)

ですから、禅師のパーラジーカが原因で、MK法友会が解散したと聞いた時は、膝から崩れ落ちるほど、驚きました。

年を取ると <自業自得> <悪業悪報> <善業善報>

が身に沁みます。

<天網恢恢疎にして漏らさず>

他人の悪事は、必要以上にコミットしない。

お天道様は見ています(笑)

あと何年か、棺の蓋が閉まるまで、正念正知(注1)、

般若の智慧Pañña)でもって、<有為法の苦界>を、生き抜きたいものだと、思っています。

注1=多くの方が誤解している様ですが、正念は、

<正しい気づき><マインドフルネス>ではありません。

正念の定義は、<業処を忘れない事> で、

すなわち、もし、あなたが<安般念>を実践しているなら、常に(起きている間中)、己の呼吸、吐く息、吸う息に、気が付いている事、を言います。

己の感情の起伏を追いかける<気づき>は、<覚知>と言いますが、<覚知>で涅槃を証する事はできません。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/

Paññādhika Sayalay 般若精舎>