本日、《実用アビダンマ》(7-18)を翻訳していまして、以下の事を思いました。
日本語で、<慙愧>(例えば慙愧に堪えない等)と一言で言われてる語彙は、本来は、<慙>と<愧>の二つに分かれる語彙で、意味もそれぞれ異なります。
同じく、仏教徒であれば知らない人のいない、
<慈悲>という言葉も、実は、<慈>と<悲>の二つに分かれた語彙なのです。
慙は、悪行をなすことに嫌悪感を感じる事。
愧は、悪行の結果齎されるであろう悪果に恐れを感じる事。
二者、微妙に違います。
慈は、己自身と他者が、幸せである様にと願い、行動する事(祈りも含む)。
悲は、己自身と他者の、困難を取り払ってあげたいと願う心の事。またその様に実践する事・・・
己自身が幸せでなければ、他者に慈・悲の心を向ける事ができないので、己自身の幸福も非常に大事、という事になります。
これら四つの仏教用語は、別々に説明された方が、自分はどれが出来ていて、どれが出来ていないかが、より明瞭になると思います。
何年か前、自称 <パオ森林僧院出身比丘> (注1)という輩がいて、慙も愧もなく、慈と悲もなく、多くの智者、法友を怒り悲しませました。
現在の彼は、仏教サンガに潜り込んだ 【賊住者】です。
彼は、アビダンマの解説が得意の様ですが、《アビダンマ読みのアビダンマ知らず》としか、言い様がありません(その浅薄な行為は <論語読みの論語知らず> より、害が甚大であるのは、皆様ご存じの通り)
慙と愧、慈と悲。
当ブログの読者の皆さまにおきましては、四つの語彙をそれぞれ分けて理解されて、日常生活の中において、活用されます様にと祈願しております。
注1=正確には、<パオ・セヤドーにパオ森林僧院日本道場の設立を委託されて帰国した者>(後に取り下げ)を宣揚し、出身母体サンガ、経歴は一転二転しており、明確ではない。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>