若い時に、マルクスの<資本論>か、何かの著書を読みましたら〘宗教は阿片である〙とありました。 例えば、階級社会の中にあって、自分が、極度の貧困に喘いでいるとして、その原因を、社会の構造、権力構造、富の分配の偏向(搾取構造)の中に求めないで、 <貧困で苦しい、不幸なのは、神が与えた試練だから、ひたすら我慢、我慢> と思う時、それは、正しい態度であるか? それともそれは、阿片(宗教)に麻痺した(麻痺させられた)奴隷根性であるか? なかなか難しい問題だと思います。 会った事もない神(創造神:キリスト教では、三位一体の最高神、ヒンズー教ではブラフマン)を信じるのは、如何なものか?とは、仏教者の私は、思わないでもありませんが、感受性の敏感な人は、その様な存在を、実在するかの様に、感じてしまうのかも知れません…(これを感応と言います)。 他人の心は測り難い故、軽々に批判するのも失礼であるし……(ゴ―タマ仏陀は、遠慮なく<六師外道>を批判していますが、私の浅学で他者批判すれば即座に、炎上しそうです〜笑)。 勿論、今話題の、お金(献金)でトラブルを起こす統一教会は以ての外、宗教の枠を、目一杯、踏み外していると思います……。 仏教では、仏陀涅槃後の、紀元0年頃に成立した大乗になると、大日如来、阿弥陀様、観音様などへの崇拝意識が出て来ますが、原始仏教には、その様なことはなく、パーリ経典の主役は、人間としてのゴータマ仏陀お一人のみであり…… 彼がひたすら説くのは、無常、苦、無我、涅槃、業(因果)で、創造神を認めず(神の最初の一撃はない)、天界にまします神々は、人間と同じ、か弱い存在として描写されます。 ゴータマ仏陀に言う無常、苦、無我は、素粒子(クォーク)のこと(と心の働きの事)を指すのですから、少なくとも、原始仏教は、非常に科学的であります。 とまれ、宗教が阿片かどうか? は、世界三大宗教と、汎神論、神道系(中国なら道教系)などを深く研究してみなければ分からないと思います。 私から言えば、マルクス主義は、唯物論と言う間違った出発点から構築されている哲学経済理論な訳ですから、それを頭から信じ込むのもまた、宗教(阿片)の一種の様に思えますけれど……… 座禅・瞑想して禅定に入れる様になりましたら、<心の存在とその働き>への理解が深まるかと思いますが、現代人は忙しくて、いかに重要ではあつても、雲を掴む様な修行に、残念ながら、時間を割けない様です。サヤレー。iPhone入力。