Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

礼賛

Vipākapaccayo atthi iti bodhentaṃ vandāmi

果報縁:

清凉で、安定していて、無熱で、無悩で、諸法を安定させる事の出来る、果報縁。

その中に衆生はなく、補特伽羅は無く、非我・非他であり、純粋に法性に属する。

無上の智でもって、斯くの如く遍知し、かつ、一切の衆生にそれを告示した仏陀・・・私はあなたの徳を憶念し、あなたの容貌を観想し、讃嘆し、敬意をもって合掌し、あなたに礼拝致します。

善哉!善哉!善哉!

最初の速行心の力

人々は、業と業果の関係を理解しないが故に、常に、己の本意とは合致しないながら、種々の善業または不善業を為す。

その為、上記の道理を理解する事は、非常に重要である。

迦葉仏は、托鉢に行く前に、必ず入定する。

この種の定は非常に安定していて、これを、滅尽定と言う。

仏陀の心は本来、非常に清浄で、安定している。しかしなぜ、托鉢の前に、仏は、滅尽定に入定するのであろうか?

それは、供養する者に、更に大きな利益を得さしめる為である。というのも、入定した後、心は更に清浄になり、更に安定・安止する。

それ故に、供養する者は、更に大きな功徳の利益を得ることができる。

反対に、供養の対象が、心猿意馬の、心思が暗く、心が不清浄な人であったならば、布施者は、功徳の利益を得る事が難しいのである。

(2-9につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

業果報の観察

業について語るならば、必ずや、業の果報についても語らねばならない。

果報とは安定しているもので、不善果報は安定しているもので、善の果報も安定しているもので、道と果の果報もまた、安定しているものである。

熟睡している時の心は、何もしていない、などと思ってはならない。

熟睡時の果報心は、依然として、不断に生・滅しており、この時の果報心と、入胎した時の結生果報心は、同じものである。

もし、菩薩たちの入胎、入胎時の心が、智相応であるならば、すなわち、無貪因、無瞋因、無痴因の、高尚な結生果報心であるならば、菩薩たちの睡眠時には、同様の果報心が生起する。

たとえば、ある子供がいて、その子供の、入胎の時の、彼の心が、非常に活発であるならば、熟睡している時の心は、この心になる。

この果報心は、不安定であるか?

否、非常に安定している。

結生の時、若し、心の状態が、非常に、喜びに溢れたものであれば、熟睡している時、この心を支える事を喜ぶ・・・その為、顔に、和やかさと喜悦が、浮かぶ。

私はよく人を観察するが、ある種の人々は、結生の時、特に嬉しいとも、嬉しくないとも思わない、すなわち、捨の状態であるが故に、熟睡している時も、和顔・喜悦の色が浮かぶ事はないし、また、瞋恚の表情もなく、ただ、普通の表情であるに過ぎない。

このように、我々は、色々な方法を用いて、人々を観察することができる。

我々は、この殊勝な方法を用いて、自分の子供を観察することができる。

一人の子供が、もし、歓喜の心、智慧と相応した無痴心で入胎したならば、この子供は非常に賢く、容姿もまた非常に秀麗で、活発である;

もう一種類の子供は、顔貌は特殊ではなく、非常に普通で、智慧もない場合、我々は、この子供が、どのような心識で入胎したのか、想像する事ができる。

これら熟睡時の心、入胎の時の心、及び日常生活における、目標を持たない所の、非常に多くの心識流は、皆、果報心に属するが、それは過去に造(ナ)した業の果報心なのである。

もし、熟睡の時に、ひとつも夢をみないのであれば、これは果報心であり、非常に安定しているものである。

果報心の特徴は、すなわち、安定である。

ちょうど大樹の下で涼む人間に、サワサワと涼しい風が吹いて、非常なる清凉を感じて、満足するが如くである。

果報心は、不活発であり、活動的なエネルギーを保有していない。

果報心は、安定的な状態にある時、その他の心、心所もまた安定する。

果報心は、その他の心と心所に伝える:

「私の安定度に合わせて、あなた方もまた安定していなさい。」

心と心所もまた、応答する:

「はい、我々もまた、あなたと同じ様に、安定します。」

この種の安定、清凉の気分は、お互いに感染し合うが、しかし、これは涅槃の清凉を、言うのではない。

不善果報もまた同様である。

畜生道にある衆生の、その熟睡時の果報、たとえば、子猫が熟睡している時、それは、不善果報ではあるものの、しかし非常に安定している。

これらは皆、果報縁である(注8)。

(注8)果報縁:

この縁の縁法は、それと同時に生じる所の縁生法をして、受動的で不活発であるように保持する。

この縁の縁法は、果報心と心所である;

縁生法もまた、当該の果報名法と、俱生色法である。

諸々の果報心が、業が熟する事によって生じる為、それらは不活発であり、受動的である。

このように、熟睡者の心には、果報有分心が連続して不断に生・滅しているが、それは、身・口・意の業を造(ナ)すには至らないし、また、はっきりと目標を知覚する事もない。

同様に、五門心路過程の中の果報心は、それらの目標を、認識する力はない。

ただ、速行の段階においてのみ、(+心は)目標を、しっかりと認識する。

という事は、速行の段階において初めて、業を造(ナ)す事ができるのである。《アビダンマ概要精解》。

(2-8につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-6

 <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

彼のこの邪行において、淫行をしてはならない対象において、徳行がないか、または無いと等しい場合は、小罪となる;

もし、(+対象が)戒等の徳行を具足している場合は、大罪となる。

この(欲邪行)には、四種類の構成要素がある:

「淫を行ってはならない対象である事、

当該の(対象に対して)淫を行う心がある事、

淫を行うという加行【努力】がある事、

道(性交の管道)を忍受して、入道する事。」

方法は一種類のみで、すなわち:

己自ら、である。

「虚妄」は、語または身の努力によって、詐欺を行って、利益を破壊【実義の隠蔽】をする事を言う。

詐欺の目的によって、身、語門の一門を運用し、邪思(心)によって、身体、語の努力を生起させて、他人を騙す事を「虚妄語」(musāvāda)という。

もう一つの(+理解の)仕方として、「虚妄」とは、不存在である事、不真実の事柄である、とすることもできる。

「語」とは、それが存在する事、真実である事を示す(+ものである)。

その特徴から言えば、「虚妄語」は、不真実の事柄をば、他人に真実であると信じさせたいという思いから、<思>によって生起する所の、表現の事である。

(3-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ここにおいて、男子に関して言えば、淫を行ってはならない対象は、20種類の女性であり、それはすなわち、母によって護られている女性など、10種類、すなわち、

母が護る女性、

父が護る女性、

父母が護る女性、

兄弟が護る女性、

姉妹が護る女性、

親戚が護る女性、

宗族が護る女性、

法【宗教者と同じ】が護る女性、

(夫が)ある女性、

罰女

である。

残りの10種類は、財によって買われた婦(=女性)等である。すなわち、

財買婦、

欲(愛)住婦、

財住婦、

衣住婦、

水鉢【盆】婦、

除環婦(環とは、頭に荷物を載せる為の輪を指す)

卑且婦、

作務婦、

捕虜婦、

暫時婦。

諸々の女性の中で、有護女と有罰女の(二)種類の女性と、財買婦などの10(種類)の女性、合わせて12種類の女性は、(夫を除いて)という呼称によって、その他の男性が、淫を行ってはならない対象(agamanīyaṭṭhāna、不応行処;訪問してはならない対象;邪淫の対象)となるのである。

(3-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

もう一つ例を挙げる。

寺院を建築する時、その担当者は早く建てたい、美しいものを建てたい、道場を荘厳あるものにしたい、と思う。

この時、彼の思は、他の人とは非常に異なる状態になる。

その差は、彼の心意が相当に強烈である、という事である。

思は、一種の強くて力のある意志力であり、善をなす時、その全体の過程の中においては、その他の善心と善心所の存在もあり得るとしても、これらの心と心所の内においては、思の力が一番強く、その他の心と心所に比べても、その強さは二倍以上になる。

故に我々は、「思はすなわち業である」と定義するものである。

礼賛

Kammapaccayo atthi iti bodhentaṃ vandāmi

無上の智遍(+知)によって、一切の業縁の存在を知る世尊に礼拝致します。

業は、樹木の種の如くに、強烈な意志の思であり、すなわちそれは、「異刹那業縁」と「俱生業縁」の中に介在して存在しており、衆生はなく、補特伽羅はなく、非我・非他であり、純粋に法性に属する。

偉大なる仏陀

あなたは、無上なる智慧でもって、法性は無我である事を遍知して、その後に、多くの衆生に知らしめた。

私は、あなたの徳を憶念し、あなたの風貌を観想し、称え、讃嘆し、心より合掌し、あなたに礼拝致します

善哉!善哉!善哉!

(2-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

業は種子の如く

古徳と論師たちは、「業」を「種子」に例える事が多い。

大樹はなぜ大きくなるのか?

それは種子があるが故に;

若し種子がないのであれば、木は育つ事ができない。

大樹が成長するのは、色々な種類がある、その種の内の一つである事、それが主な因である。

業もまた同じように、善または悪を為している時、思心所は、非常に強くて力があるものである。

ごらん!

私が一回また一回と、法話をしている、その時の言葉の中には、思の力が充満している。

(+他人のと)同じ声であったとしても、この(+私の)声には、思の力が充満している。

なぜであるか?

というのも、私は聴衆のみなさんに(+仏法を)理解してもらいたいという、非常に強い心意があるからであり、この(+強い)心が、すなわち、思なのである。

思心所は、どのような善業、または悪業の心所の中にも、含まれている。

例えば:

今日の斎主と、食事を供養しない人との間には、それぞれ心の状態は異なる。

斎主の心には、強くて力のある思があり、彼女は僧衆に斎食を提供しようと、一心に考え、その為に、彼女の思心所の力は、絶え間なく増大し、故に、早朝から斎食の準備をしている。

彼女の心は、斎食を準備しない他の人々の心とは、まったく異なるものなのである。

(2-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-5

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この(不与取)には、五種類の構成要素がある:

「他人の所有物である事、他人の所有物であるという思がある、盗む心、行動する、及び当該の行動によって、取る事」である。

自ら取る、などの六種類の方法がある。

これらの偸盗は、その相応する能力に合わせて:

偸盗取、強迫取、遍計取、隠蔵及び取る準備(kusa、吉祥草)【籤券の偸盗】という、これらの方式で実践される。

上記は簡単な説明であり、詳細は《普端厳》参照の事。

「欲邪行(kāmesu micchācāra)」の中の「諸欲」とは淫行(性交)を指す。「邪行」とは、譴責されるべき、低劣な行為を言う。

その特徴を述べれば、欲邪行は、正法でない目的をもって、身門を運用して、淫を行ってはならない対象を侵犯する思(=意志)である。

(3-6につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>