Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-10-01から1ヶ月間の記事一覧

「身念処」1-42

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-5(第二聖諦) 第二聖諦とは、苦因聖諦(集諦)の事であるーー苦の因とは、すなわち渇愛、または貪愛である。 三種類の貪愛がある: 1)欲貪(感官的な貪愛)。 五根の、五塵(色、声、香、味、触)に対して…

「身念処」1-41

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、<今・ここ>における心身を所縁として、苦を観照しなければならない。 智慧でもって、苦を照見すればするほど、修行の中から、多くの利益を得る事ができる。 この種の利益とは、貪愛を断じ除く事ができ…

「身念処」1-40

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> どのような肉体的存在に対しても、欣喜を覚える人; 目が色(=物質)を見る時、耳が音・声を聞くとき、または想像に対する認知において、または心行または意識の造作に欣喜を覚える人; 彼は苦を受けるのが好き…

「身念処」1-39

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-4-2 仏陀が発見した11種類の苦諦 1)(五蘊の)生。 果(肉体的な苦) 2)(五蘊の老)衰。 (1~3) 3)(五蘊の)死。 4)悲しみ悼む。 5)悲しみ。 6)痛み(肉体的な苦) 7)苦悩(心理的な苦)…

「身念処」1‐38

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1‐4‐4‐1 苦の四つの種類 1)苦苦(一般的な肉体的痛みーー心が痛みを知るーー身体の痛みは、心の苦を引き起こす。 阿羅漢果を証悟した人だけが、身体の痛みを感じた時、それを感じるままにして、心の苦を、引き…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-120

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (+上述の)これらが究極法であるように、行捨と観捨もまた、同様なる究極法である。 というのも、それらはただ、二種類の作用に基づいているだけであって、それを二種類に分けているだけであるから。 たとえば…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-119(117/431)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (九)禅捨とは、最も上等な楽でさえも、偏しない事。この事は、以下のように形容する事ができる: 「彼は捨に安住する。」(《長部》;《法聚論》) (十)遍浄捨とは、一切の障礙から浄化される事。障礙の止息…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-118

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (六)受捨は、不苦不楽受であり、これは以下のように形容する事ができる: 「捨具欲界善心が生起した時。」(《法聚論》) (七)観捨は、観智によって諸行の相を観照した後、観照した所の諸行の相に対して、中…

「身念処」1-37

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-4 苦諦 我々(の心身)が存在する限り、(+人は)常に、苦を受けねばならない。 これがすなわち、苦諦である。 そして、苦諦は、対処法がない。(苦々と行苦だけが、対処できる。) 心身は、いついかなる時…

「身念処」1-36

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-2 四聖法の応用 1)苦の体験(苦とは五蘊の事:すなわち、心身)これは一般的な苦を言うのではなく、根本的な苦である(苦諦)。 2)集は苦の因である。 3)涅槃(苦の止息:滅)。 4)八聖道を奉じれば…

「身念処」1-35

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4 四聖諦 前述の一節(1-3節)の中において、我々は、37道品を修行する事の目標は、四聖諦(図1-1)を体験・証悟する事であるを知った。 1)苦諦(苦の真理。五蘊または心身は苦である事) 2)集諦(苦の起因…

是誰庵のひとやすみ~仏教の真価

破迷起信(迷いを破り、確信を得る) 離苦得楽(苦より離れて楽を得る) 了解人生的真諦(人生の真の意味を理解して) 改正生活習慣(生活習慣を改めて) 提昇生命価値(命の価値を高めましょう) 啓発智慧(智慧を啓発し) 解脱生死(生まれる事と死ぬ事か…

是誰庵のひとやすみ~比丘に触らないで下さい

私が、日本の仏教界、日本の僧侶たちの振る舞いに疑問を感じて、聞法と修行の場を、タイの森林寺院に求めたのは、30歳を過ぎた頃でした。 タイ語は一言「ニー・アライ?」(これは何ですか?)しか言えなかったのですが、バスを乗り継いて、バンコクの西部、…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-117

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10-1 10種類の捨 捨には10の種類がある: 1,六支捨(chaḷaṅgupekkhā); 2,梵住捨(brahmavihārupekkhā); 3,覚支捨(bojjhaṅgupekkhā); 4、精進捨(viriyupekkhā); 5,行捨(saṅkhārupekkhā); …

「身念処」1-34(30 /203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-7 八聖道 八聖道とは、37道品の最後の要項で、この八聖道を加えて、37項目になるものである。 八聖道は、世間と出世間という、二種類があり、7菩提分が円満された時、八聖道は、出世間(聖道)になるが、この…

「身念処」1-33

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 4)喜覚支(喜悦) この種の喜は、実相般若から出たものであって、貪愛・煩悩などの、世間的な快楽ではない。 11法を円満する必要があり、それはたとえば: 修行者は、仏、法、僧、戒と涅槃の功徳に、思いを馳せ…

「身念処」1-32

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-6 七菩提分(図1-1) (七菩提分は、八聖道の勇猛な智慧を誘発する事ができる。八聖道は、悟道に導く事ができる。そして、この道は、四念処より始まる。) 1)念覚支(念住) 正念が非常に強くなる: この段…

「身念処」1-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-5 五力(図1-1) (五力の作用は、五根と同じであるが、その力は五根より強い) 1)信力: 修行に対しての信心(=確信)が、一層強化され、修法を正しいものとする、確信が生まれる。 2)進力<ママ>(訳者…

是誰庵のひとやすみ~凛々として

2011年に東関東・福島大地震が起き、東電の原子力発電所が暴発し、廃墟と化しました。 私はそれ以前に、通訳随行員として、女川原発を視察した事が有り、施設内部を見、職員の説明を聞いた結果、原子力発電にはよい印象を持っていませんでした。 そのため、…

「身念処」1-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-4 五根(図1-1) (四念処に用いる場合) 1)信根(信心・確信、信仰・信頼によるコントロール能力): この段階において、心の力は強くなり、(+修行を)嫌になったり、厭きたりしない。 修行者は、四念処…

「身念処」1-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-2 四正勤(図1-1) (すでに生じた煩悩は断じ除き、いまだ生じない煩悩は、増長させない事に、精進する) 1)悪の境界を断じ除く努力をする。 2)悪の境界を防御する努力をする(この二項の煩悩は、蓋とい…

「身念処」1-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-1-5 修行の助縁 (煩悩を断じ除くのに有利な条件) 1)住む場所の助縁: 静かで、誰かの持ち物ではない所。 それ故に、執着から生じる煩悩とは、無縁であるような場所。 2)法の助縁: 修行者の性質と行動…

「身念処」1-27

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-3-3 如理作意と覚察力(=察知力) 上述の二点以外に、修行に役立つ二種類の要素がある: それは、如理作意(すなわち、何かをなす時には、その理由をよく知って、同時に、煩悩を防止する事)及び察知力(す…

「身念処」1-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2)受 身念処を修している時に、受を観じてはいけない。受念処の修習の時にだけ、受を観ずるようにするべきである。 たとえば、身体が痛みを感じる時、心が痛みを知っているという事に関しての、観照をしてはな…

「身念処」1-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3-1-1 四念処を修する時の要件 a)身、受、心または法を所縁とする必要がある。 b)三心(精進、正念、正知)の下に、所縁を観照する事。これが真正なる四念処の修法であり、四念処は、涅槃への道を強化し、涅…

「身念処」1-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1)所縁:座っている時の、色身を観照するーー己自身に対して。 2)能縁:精進ーー正念ーー正知。これが、真正なる四念処である(この三心とはすなわち、戒・定・慧と八聖道である)。 3)目的:五蘊への好悪…

「身念処」1-23(20/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 図1-1 37道品 (訳者~当ブログは図表を作る事ができませんので、文章形式・箇条書きとします) 1)身(身念処)は、14個の所縁 (粗いか微細かの動作のみ)。 2)受(受念処)は9個の所縁。 3)心(心念処)…

「身念処」1-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-3 37道品 人は、過去を追憶してはならないし、未来を妄想してもならない。 過去は・・・すでに過ぎ去っており、未来は・・・未だ来ていない。 今ここにおいて生起した所の、一つひとつの念頭(=想い)を観照し…

是誰庵のひとやすみ~白菊会

昨日は、某大学医学部白菊会(献体関連の、大学の外郭団体)の合同慰霊祭があり、お招きがあったので、行ってきました。 私は献体登録をして、もう30年くらいになります。 20年前に、子宮がんを手術した時は「もう献体できないのか?」と思いましたが、その…

「身念処」1-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏陀が、悟道した当夜経験したのは、四聖諦の三つの智階(彼が経験したのは、4*3=12階)である。 彼は、三つの智階(諦智、作智、証智)を理解・了解したけれども、一つの智階毎に、四つの聖諦を掛ける(+のが…