2020-12-01から1ヶ月間の記事一覧
二、智慧の光の育成 強くて力のある禅定は、強くて力のある光を生じせしめることができる。 この、強くて力のある光を頼りに、あなたは勝義諦(paramatthasacca)に通達(到達、以下同様)することができる。 仏陀は、《増支部・光耀品》(Ābhāvagga、Aṅgutt…
如何にして第一と第二聖諦を知見するか 一、定力の育成 一つひとつの色聚の中の、それぞれ一種類の色法を見る事が出来るならば、それは究極色法を見たのだと言えるが、しかし、これには強くて力のある禅定を具備する必要がある。 唯一、強くて力のある禅定に…
<#11-1>は、本文P 32 ~34にある脚注の翻訳。 <注29>=名業処(nāmakammaṭṭhāna)を修する時、禅修行者は、それらを自ら知見することができるが、それ以前においては《摂阿毘達摩議論》を参考にすることができる。 <注30>=パオ・セヤドーは以下の様に…
色法を如実に知見したいのであれば、我々は、物質現象はパーリ語で rūpa-kalāpa(色聚)と呼ばれる所の、極微細の粒子によって構成されている事を、知らねばならない。 色聚は極めて高速に生起し、また壊滅するが、しかし、これは真実の概念法(vijjamānapañ…
しかしながら、もし、未だ覚悟(覚醒)していないのであれば、我々はただ、89種類の心の中の54種類の心と心所しか、識別できない。 すなわち、12不善心(akusalacitta) 17無因心(ahetukacitta)(未だ、阿拉漢の生笑心は識別する事はできない) 16欲界善心…
第三節 第一聖諦を知見する 我々は、逐一、一つ一つの名法を知見しなければならない。また、五依処において生起する所の、二種類の識(双五識(dvepañcaviññāṇa))の一つを見なければならない: 1)善果報識(kusala-vipākaviññāṇa):すなわち、眼識、耳識…
<注22>=依処:五種類の物質的依処は、すべて ”vatthu” または ”āyatana” と称する事ができる。 しかし、第六番目の物質的依処は、ただ ”vatthu” と呼ぶ、例えば ”hadayavatthu”は、すなわち、心処である。 「意処」(manāyatana)と呼ばれる所の第六処は…
<注19>=別の角度から見ると、仏陀は縁起について解説する時、名色を六処(sālāyatana:六内処と六外処)と呼んでいる。彼の教導を総覧すると、仏陀は聴衆の意向と理解能力に基づいて説法をする為、各種の異なった方式で名色を解説している。それらは結局…
<#9>シリーズは、 中国語原文[P 18~P 29]までの<脚注>の翻訳 <注12>=当該の緒論(序論)は、『親知実見』改訂版において増補された。 <注13>=未翻訳のパーリ術語は、(付録二 パーリ語術語解説)等を参照の事。 <注14>=経典略語と文献索引は…
例えば、ある一つの色法所縁ーー例えば色彩ーーが眼門色法を衝撃する時、かつ、同時に意門(有分)を衝撃する時、即刻、一個の意識と眼識が生起するが、しかし、それらは所縁を「認知」する事はできないし、また、当該の所縁が色彩であるという事も知ること…
まさに仏陀が述べるが如く、六根門の一つが、適切な(対応する所の)所縁に遭遇した時、心識は生起する。故に、合計六種類の識が存在する: 1)眼識(cakkhuviññāṇa) 2)耳識(sotaviññāṇa) 3)鼻識(ghānaviññāṇa) 4)舌識(jivhāviññṇa) 5)身識(kāya…
色法所縁が相応する色法根門を衝撃する時、それらは、時を同じくして、意門(有分)<注24>をもまた、衝撃するーーすべての、その他の所縁は意門を衝撃するのである。 意門をのみ衝撃する所縁は、非名色、非世間的所縁を含む。故に、合計六種類の所縁がある…
先日、老人向け体操教室で、ある人から 「宗教なんて、心の弱い人が嵌るのよね」 と言われました。 私は反論しませんでした。 宗教は、彼女の指摘する、そういう面もあるかも知れません、特に、占いや予言など、不確かな情報に頼る人は<心の弱い人>と呼ばれ…
仏陀の解説の如く、合計で六根門がある; 1)眼門(cakkhudvāra) 2)耳門(sotadvāra) 3)鼻門(ghānadvāra) 4)舌門(jivhādvāra) 5)身門(kāyadvāra) 6)意門(有分)(manodvāra) 前の五根門は、色法(rūpa)、すなわち、五依処(vatthu)<注22>…
仏陀は言う: 「比庫たちよ、世間の集とは何か?」 [1]目と色(cakkhuñca paṭicca rūpa<注20>ca)の縁によりて、眼識が生じる、 三者が結合して触(phasso)となる; 触の縁によりて受(vedanā) 受の縁によりて愛(taṇhā) 愛の縁によりて取(upādāna)…
この五取蘊はすなわち、第一聖諦ーー苦聖諦である。 まさに、仏陀が解説した様に、一つ一つの蘊は、皆、11種類の形式によって組成されている。 故に、五取蘊を知見するとは、すなわち、この11種類の形式における色、受、想、行、識を知見する、という事を意…
仏陀は《蘊経》(Khandha Sutta)の中において、一つ一つの蘊を11種類に分類した;<注18> 「比庫たちよ、 五取蘊(pañcupādānakkhandhā)とは何であるか? 比庫たちよ、 すべて色(rūpam)、以下のものすべてが、有漏(sāsavaṃ)であり、執取(執着、以下…
仏陀がここで言う所の世間法とは、五蘊を指し、又それはすなわち、苦聖諦と苦集聖諦(の事)である。 例えば仏陀は《大念処經》(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta)において、以下の様に言う: 「比庫たちよ。 所謂 『簡潔に言えば:五取蘊とはすなわち、苦である』 …
仏陀は《花経》(Puppha Sutta)の中において、以下の様に説明する: 「比庫たちよ。すべての、世間的な世間法(loke likadhammo) に関して、如来はすべて徹底的に悟り、それらを領悟した。徹底的に領悟した後、それらに関して、宣言説法し、教説し、施設し…
第一と第二聖諦 第一聖諦ーー苦聖諦とは何か? 仏陀は《転法輪経》(Dhamacakkappavattana Sutta)の中で、以下の様に説明する: 「比庫たちよ。これは苦聖諦であるーー 生は苦であり、老は苦でり、 病は苦であり、死は苦であり、 怨憎会は苦であり、愛別離…
上に述べた事柄を成就する為の唯一の道は、まず先に、世間第四聖諦ーー世間道諦(lokiyamaggasacca)、すなわち、世間八支聖道、三学を修習する事である: 1)戒(sīla) 2)定(samādhi) 3)慧(pañña)<注16> 比庫について言うならば、戒とはパーティ…
先日の、老人向け体操教室での事・・・ 参加者の老人の中に一名、浄土真宗の方で、 『緬甸の竪琴』 という映画を見た事があって、 「緬甸の仏教に興味がある」と おっしゃるので、私が持っている中国語の仏教書 邦訳では 『仏教キホンのキ』 というのを、持…
第二節 何が徹底的に知られねばならないか 仏陀が四聖諦を教導するのは、我々が第三聖諦ーー涅槃、すなわち、輪廻と輪廻の苦の完全なる止息を証悟できる様にする為である。 当然、適切な条件がなければ、証悟する事はできない。 《尖頂閣<注15>経》(Kūṭāg…
緒論(序論)<注12> 第一節 仏陀の教法 ある時、跋葛瓦が瓦基人(ワッジ人)の村の際に住んでいた。 そこで、跋葛瓦は、比庫(南伝の男性出家者bhikkhu、以下同様)たち<注13>に言った: 「比庫たちよ。 四聖諦(catunnaṃ Ariyasaccānaṃ)に対して 不…
<注7>=本書第一版においては、仏音尊者(Ven.Budhaghosa)の「己自身の意見は最も弱い・・・」(D.A. 2.188)とパオ・セヤドーの「これは私の禅法ではない。私はただパーリ三蔵と義注の中からそれらを取り出しただけである」という言葉を引用した。 こ…
#7のシリーズは、 中国語原文<P 1~P 16>記載の<脚注>の翻訳 <注1>=セヤドー、緬甸語sayadawの音訳(またはサヤドーとも表記)。 意味は尊敬する教師、指導者。 緬甸人による、徳の高い人望のある大長老または寺院の住職への尊称。 ある種の人々は「パ…
経典略語(本書引用の経典) A.=Aṅguttara-nikāya(増支部) A.A.=Aṅguttara-nikāya-aṭṭhakathā<注9> (増支部義注) Abs.=Abhidhammatthasaṅgaho(摂阿毘達摩義論) Ap.=Apadāna(本行) D.=Dīgha-nikāya(長部) D. A.=Dīgha-nikāya-aṭṭhakathā(長部義…
本書第一版への反応を鑑み、また、最も尊敬するパオ・セヤドーの教導の全体性を考慮するならば、以下の四点をぜひとも指摘しなければならない; 1)ある種の人々は、便宜性の為に「パオ・メソッド」という語彙を使って、パオ・セヤドーの禅修の指導内容を表…
英語版再版序文(第二、第三版) 第一版”Knowing and Seeing” (《如実知見》)は、最も尊敬する、パオ禅林セヤドー(the Most Venerable Pa-Auk Tawya <注2>Sayadaw)の、台湾における止観禅リトリートの法話録である。 当該の書籍が出版された時、最大の…
英語版序文(第一版) 本書の法話は、緬甸モーラミャインパオ禅林 パオ・セヤドー (Venerable Pa‐Auk Tawya Sayadaw)が、台湾新竹壱同寺において、禅リトリートを指導した時に話された事である。 この2か月間のリトリート中、セヤドーは、毎日、個別の禅修…