2.果報 諸々の縁が十分に具足した時、業はその果報(vipaka)を生じせしめる。果は、3種類ある:未完
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(50ー3)(私家版)
業の定法:それは、なした所の業の、その善か悪かによって、それに符合する所の、果報を確保する。。。 例えば、(植物の)種は、その種類の基づいて、果実を生む。。。。。。。。。 我々が、手にあるボールを壁に向かって投げつけたならば、その力が大きい時は、ボールの戻って来る力は大きい。力が緩い時は、ボールの戻って来る力は小さい。。。これが、業の定法である。。。。。。。 ボールは、壁に向けて投げつけられれば、必ず弾んで、戻って来る。。。 業をなし(造り)続けるならぱ、必ず果報が生じる。どの様な果報を受け取るかは、どの様な種を植えたかによる。。。。。 苦瓜の種を植えたのであれば、将来、生じる果実は苦瓜であり、ヘチマや冬瓜にはならない。。。 我々は、善なる果が欲しいのであるならぱ、善の因を植えなければならない。苦の果が欲しければ、苦の因を植えればよい。この様に、野菜や果物を育てる事の中にも、非常に多くの仏法が内在している。
身・口・意を慎んで
本日翻訳UPしました、業に関する解説 <実用アビダンマ(50ー1)>、 なかなかに、怖いものがあります。。。 業とは、長い輪廻の中において積み重ねた心の癖と、その心の癖が引き起こす、諸々の現象。。。。。。。。 それらは、善なるものもあれば、望まない不善なるものものもあります。。。 私の精舎は、九州のとある片田舎、温泉町にあります。。。 あちらこちら、温泉が豊富に湧き出る為、精舎で風呂を沸かさず、毎日、共同温泉に湯浴みに行きます(比丘は戒律の規定で、人の集まる所で衣を脱ぐことは禁止。その為、共同温泉は入れません。貸し切りにすれば入浴可能。サヤレーには、この戒律の適用はなし)。。。 毎日、共同温泉に行っていますと、多くの方々と顔見知りになります。その中で、何人か、こまったさんがいます。。。 他人の外観の欠点を言い立てる人、あのボランティアをした、このボランティアをしたと、ボランティアが趣味で、延々とボランティア自慢をする人………いえ、私もたまに、姪の自慢、海外在住の孫自慢します……(汗)。。。。。 パオ森林僧院ヤンゴン分院住職のクムダ・セヤドー教えて曰く: 「身・口・意に気を付けて。凡夫は頭の中の悪い考えを止める事ができないが、せめて、それを口に出して言わない様に努力しなさい。」。。。。。 頭の中で考えているだけなら、業としては軽く、身体または口による実行動に移すと、業としては重くなるからだと思います。。。。。 ご参考まで。
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(50ー2)(私家版)
■業と果報 1.業 一つ一つの願望を伴った行為は、皆、果報を生じる。。。、。。 因が果を生じせしめる為、そを見れば因が分かる。。。 例えば、己の生活の様子、容貌、寿命、健康状態、性別、智慧などなどは、果である。。。 果をみれば、己が前世で蒔いた因を知る事ができる。。。。 業は善なるものと、不善なるものとがある。果報の本質からみると、善と不善の区別は持たない。 善であるとか、不善であるとかを言うのは、その善業又は不善業が齎す、結果を言うのである。