6.4増上 (1)欲増上。(2)精進増上。(3)心増上。(4)観増上。。。。 増上法とは、所属の心を支配して、艱難な事柄を実行させる、又は完成させる。又は重要な任務を遂行する事を言う。増上法と根の間の違いは、支配の程度と範囲である。増上法は、心全体を全面的に支配し、整備する。根は、ただ、その範囲内において、その支配の能力を発揮する。故に、一個の心の中において、多くの根が存在する事ができる。例えば、色塵が眼根を衝撃した時、眼識、 未完 が生じるなど)
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー6/7)(私家版)
諸々の根の中において、「未知当知根」は、ソータパナ道智である。「具最終知根」は、阿羅漢果智てある。「最終知根」は、中間の、6種の(出世間)智で、ソタパナ果智、サタガミ道智、サカダミ果智、アナガミ道智、アナガミ道智、阿羅漢道智を含む。合計22根ある。。。。 5.9力 (1)信力。(2)精進力。(3)念力。(4)定力。(5)慧力。(6)慚力。(7)愧力。(8)無慚力。(9)無愧力。この9力は、対立する法に影響を受けて、動揺する事がない。又は、その相応する法を強化する事ができる為に、こな様に言われる。信力、念力、慚力と愧力は善又は無記てある。無慚力と無愧力は、絶対的な不善である。精進力と定力は、善又は不善又は無記である。精進力には邪精進があるため、定力には邪定があるため、これらは善又は不善てある。
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー4/5)(私家版)
《カラマ経》は、南伝仏教において、非常に重要な経典である。以下の言葉は考察するに値する:「経典で述べられている事、伝統的に述べられている事、教師が述べた事、文化的に伝承された事……などなどは、軽々しく信じてはならない。」経典にあるからといって、教師が述べたからといって、伝統的に継承されているからといって、その全てを信じてはならない。仏陀は我々にこの様な態度を求めていない。。 仏陀は、先に質疑をし、その後に己自ら実修してみる事を勧めている。。 修行を通して、貪、瞋、痴が軽減したならば、それは正しい。もし、我執、慢心、貪、瞋が増加するならば、その道は正しくないので、これを放棄しなければならない。。。 「彼は私の教師である。私は必ず彼の言う事を聞かなければならない」と執着してはならない。そうでなければ、信は愚かさに変わってしまう。。。 仏教徒であれば、聞いた事柄を何でも信じるのではなく、深く理解し、実験してみろ事、いわゆる、聞く、思(考える)、修行する、が必要である。。。 反対に、ただ質問するばかりで、修行しないのであれば、それは例えば、宝の山に分け入っていながら、目の前の宝は偽物であるかと懐疑して、せっかく宝の山に入っても、空手で帰ってくる様なもので、これも間違っているのである。西洋人は、慧根が強すぎる。何事にも疑問を持ち、「それは何故か?」と聞いてくるので、進歩がとても遅い。アジア人は信根が非常に強く、進歩は速い。しかし、聞いた事を何でも信じて、考察しないならば、間違いを犯してしまう。これが、アジア人と西洋人の違いである。精進根が強すぎると、ジョウ挙が生じる。特に安般念を修行する時、呼吸が非常に微細になる為、それを明確にしようとして、力を入れて呼吸する様になり、結果、鼻が硬くなり、痛くなる。そして、定を得らないまま、更に努力する為、心は更に混乱し、最後には修行に興味がなくなる。故に、精進根と定根は、バランスしなければならない。もし、定が強すぎて、精進力が足りないのであるならば、人は昏沈する。念根に関しては、料理をする時の塩の様てまある。故に、仏陀は言う:「いつ如何なる時も、念は必要である。」
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー3)(私家版)
4.22根 (1)眼根。(2)耳根。(3)鼻根。(4)舌根。(5)身根。(6)女根。(7)男根。(8)命根。(9)意根。(10)楽根。(11)苦根。(12)悦根。(13)憂根。(14)捨根。(15)信根。(16)精進根。(17)念根。(18)定根。(19)慧根。(20)未知当知根。(21)最終智根。(22)具最終智根。。。。。。 根とは、その範囲内において、相応する法をコントロールする法である。例えば、台湾の台北市、桃園市には、それぞれ市長が統治管理しており、市長はその市の根に相当する。前の5根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根)は、5浄色である。2個の性根は、2種の性根色である。命根は、2種あり、それぞれ命根と命根色である。意根は、心の全体、即ち89心を言う。5受根(楽根、苦根、悦根、憂根、捨根)は既に前に述べた通りである。5個の修行の根(信根、定根、念根、慧根、精進根)は、非常に重要なもので、5根はバランスされて初めて、修行が進歩する。信根は慧根とバランスされ、定根は精進根とバランスされなければならない。念根は、いつの時にも必要である。念根があって初めて、信が過剰で慧根が足りない、又は慧根が過剰で信根が足りない事が分かる。これを知って後初めてバランスを取る事ができるのであって、これを知ることがないのであれば、念根が足りない事を示しており、修行はなかなか進まない。信根の強すぎる人は、容易に他人の話を信じ、誰の話でも信じてしまうが、この状況は、アジアに多い。
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー2)(私家版)
3.12道分 (1)正見。(2)正思惟。(3)正語。(4)正業。(5)正命。(6)正精進。(7)正念。(8)正定。(9)邪見。(10)邪思惟。(11)邪精進。(12)邪定。。。。。。。。 ここで言う「道」は、ある目的地に導く意味である(道路の様に)。即ち善趣、悪趣又は涅槃に導くのである。12道分の内、前の8個(即ち8正道と呼ぶもの)は、善趣と涅槃に導く。後ろの4者(邪見、邪思惟、邪精進、邪定)は、悪趣(四悪道)に導く。8正道は、世間的8正道と出世間的8正道に分けられる。世間的8正道は善趣に導き、出世間的8正道は、涅槃に導く。後ろの例は、例えば、ある人が強盗を企てており、彼は因果の応報はない、と考えているとしたら、これは邪見である。彼は先に襲撃に関する計画を立てるが、これは邪思惟である。行動している最中は邪精進である。銃でもって撃つときは、邪定である。この道分は、縮小すると9個の心所になる。正見は慧心所。正思惟、正精進、正念と正定はそれぞれ、有因善心と無記心の中の尋、精進、念と一境性心所である。正定と一境性は同じ意味である。正念は念心所、正精進は精進心所である。正思惟は尋心所、正語、正業と正命は3個の雑心所である。出世間心の中において一度出現し、世間善心においては、状況に応じて個別に出現する。悪語を意識的に遠離しようとする時、正語が生起する。意識的に悪語から遠離しようとしない時は、生起しない。4個の邪道分(邪見、邪思惟、邪精進、邪定)の内、邪見は邪見心所で、諸々の道分のなかにおいて、絶対的に不善の心所に属する。その他の3個の道分は、不善心所の中の尋、精進と一境性心所に属する。ここでは、個別の邪語、邪業と邪命道分はない。というのも、それらは煩悩によって引き起こされた不善行であるが故に。ここには又、邪念道分もない。というのも、念は絶対的に美心所に属するが故に、不善心所において現れると言うことはない。
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー1)(私家版)
■混合的な類別の概要 混合的類別の概要は、その列挙された組み合わせが、善、不善と無記心所が含まれている為、この様に言われる。合計7個に分けられる。。。。。。。。 1.6因(根) (1)貪。(2)瞋。(3)痴。(4)無貪。(5)無瞋。(6)無痴。。。。。 2.7禅支 (1)尋。(2)伺。(3)喜。(4)一境性。(5)悦。(6)憂。(7)捨。 経典では5個の禅支が挙げられているが、論蔵では7個の禅支が挙げられる。。。 ここにおける「禅那」(禅支)は、一般的な用法である安止定とは異なり、目標を「緊密に観察する」と言う、もう少し広範囲な意味に用いられる。ここに列挙した諸法は、禅修行の安止の時以外にも発生するが、これも又禅支と見做す。例えば、悦と憂は、共に禅修行の安止の外にあるが、しかし、禅支と見做すのだある。この7個の心所を禅支と見做すのは、心をして、緊密に目標に密接させる事から、そういうのである。その中の「憂」は絶対的な不善であるが、しかし、ニ種の瞋恚相応の心にしか生起しない。その他の6個は、善であってり、不善であったり、又は無記であったりする。即ち、それらがどの様な心において生起するのか。による。善心に生起すれば、善であり、不善心に生起すれば不善である。
翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(82ー19)(私家版)
(1)四漏。(2)四暴流。(3)四軛は3個の心所:貪、邪見、痴。(4)四繋は3個の心所:貪、邪見と瞋。(5)四取は2個の心所:貪と邪見。(6)6蓋は8個の心所:貪、痴、瞋、疑、ジョウ挙。昏沈、悪作と睡眠。(7)7個の潜在的傾向は6個の心所:貪、邪見、痴、瞋、疑と慢心。(8)10結は9個の心所:貪、邪見、痴、瞋、疑、慢心、ジョウ挙、嫉と慳。(9)10煩悩は10個の心所:貪、邪見、痴、瞋、疑、慢心、ジョウ挙、昏沈、無慚、無愧。。上の表(ブログでは割愛)で分かる様に、不善の概要の、9個の部分には、全てにおいて貪心所がある。これは、貪は、非常に強い煩悩である事を表している。又、「貪」は、四聖諦の中の「集」諦であることも分かる。一切の苦痛の根源は、貪愛である。二番目に重要なものは邪見心所である。邪見心所は多くのものを含む。例えば、身見、因果を信じない、断見、常見……など、各種各様の邪見がある。非常に重要な不善心所である。三番目は痴心所(無明)である。無明は潜在的な根であり、一切の煩悩は、無明による。四番目は瞋心所である。これも又非常に重い煩悩である。貪、瞋、痴と邪見という4個の心所は、非常に重い煩悩である。不善の概要の9個の内、仏陀が比較的よく提言したのは:漏(例えば、諸々の漏は既に尽きた。)取(例えば、愛の縁により、取が生起する。)。蓋(ジャーナに触れる時に、常に5蓋、それに無明を加えて説明した。)結(例えば、ソータパナは何の結を断じているか、サーターガミは何の結を断じているか。論蔵の中では、不善の概要を、心所に依るものとして、分析している。我々はこれによって、悪を造す時は、どの様な心所によるのかを、知ることができる。