例えば、ある一つの色法所縁ーー例えば色彩ーーが眼門色法を衝撃する時、かつ、同時に意門(有分)を衝撃する時、即刻、一個の意識と眼識が生起するが、しかし、それらは所縁を「認知」する事はできないし、また、当該の所縁が色彩であるという事も知ることがない。所縁に対する認知は、その後に生起する意識によるのである。
故に、我々は、名色法を了知したいのであれば、種類毎の名法、種類毎の色法及び、それらは如何にして、共同的に運用されるのかを知らねばならないのだ、という事が理解されるのである。
我々は以下の事を了知しなければならない:
1)根門色法
2)所縁色法
3)色法根門と意門において生じる名法。
我々は、眼門、眼門の所縁(色彩)及び色彩が眼門を衝撃する時に生起する所の意識と眼識を知見しなければならない。
我々は、眼門色法がなければ、眼識が生起する事がないということを知見しなければならない;
心処色がなければ、意識が生起することはないことを知見しなければならない;
所縁色法(色彩)がなかれば、眼識も意識も生起しないことを知見しなければならない。
我々はまた、上記の如くに、耳、鼻、舌と身体を知見しなければならないし、かつ、心処色に依存して生起させられた所の意識が識知する所の所縁を知見しなければならない。
ただし、これらの実相をただ概念によってのみ、了知したと言ってはならない。というのも、そうであれば、その表象を知見したに過ぎないが故に。
また、この様にであるならば、我々は已然として仏陀の言う所の「愚人、凡夫、盲目者、無眼者、不知者、不見者」である事を意味するが故に。
これらの現象を如実に知見したいと思うならば、我々は勝義諦(paramatthasacca)を見る必要があり、究極名色法(paramatthanāmarūpa)を知見する必要があるのである。