Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-41

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行者は、<今・ここ>における心身を所縁として、苦を観照しなければならない。

智慧でもって、苦を照見すればするほど、修行の中から、多くの利益を得る事ができる。

この種の利益とは、貪愛を断じ除く事ができる、ということである。

もし、楽を体験する事が多ければ多いほど、益々多くの苦を隠ぺいする事になり、修行にとっては、余り益がない。

ある種の修行者は、苦を体験しようとせず、楽受(定)に耽溺しようとするーーそして、益々、楽受を歓ぶようになり、結局、彼らは、五蘊に執着する事になる。

五蘊には、苦受、楽受、捨受があるーー故に、彼らは、特に、五蘊の中の楽受を、喜ぶのである。

これらの楽受がある時、修行者は、この種の楽受を涅槃だ、と思ってしまう。

この種の楽受は、真正なる涅槃のようには、煩悩を断じ除く事はできないし、心身への執着を抜し除く事もできない。

1-4-4-3 六根の中の苦

五蘊(心身)の生起とは、すなわち、苦諦である。

苦諦は、六根(眼、耳、鼻、舌、身体、意)によって生じる。すなわち、目が色(=物質)を見る時、目と色は色蘊で、見る(または聞く等)はの、作用は識蘊である。

そして識蘊は、その他の三蘊:受蘊、想蘊、行蘊によって構成されている。

故に、総じていえば、六根によって五蘊が生じ、五蘊が生じる時はすなわち、苦諦なのである、という事が言える。

同様に、その他の根門:耳、鼻、舌等もまた、同様である。我々は、仏法で言う所の「世間」について語る時、それは五蘊の世間、または六根の世間を指すのである。

瓦席拉泰麗(waxilataili)は、仏陀在世の頃の、阿羅漢の比丘尼であったが、彼女は以下のように言う:

「唯一、苦が生じ、唯一、苦が住み(=留まる事)、唯一、苦が滅する。苦を除いて、一つも、所有されるものはない。」

(1-42につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>