「身念処」1-18
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
これらは、非常によい質問である。
というのも、仏教徒は皆、苦を滅したいと考えており、苦を滅したければ、涅槃を証得しなければならないからである。
我々は、手短に、これらの疑問に対して、答えたいと思う。
もし、あなたが修行に成就した時、あなたは更にはっきりと、知る事になるであろう。
a)涅槃とは何か?
涅槃とは、短い、暫定的な、道刹那の所縁である。涅槃は実相であり、または自然な事物の真実の状態である。
道刹那は、涅槃を所縁として、煩悩を断じ除く事ができ、苦を滅する事ができる。
苦とは「我(=私)」(心身)である。もし、「我」(心身)がないならば、諸々の、たとえば、老、病、死などなどの苦はないのであるーー涅槃の状態には、五蘊がない。五蘊は、真正なる苦(苦諦)である。
我々一人ひとりは、皆、五蘊によって構成されている:すなわち、色、受、想、行、識である。
また、もっと簡単に言えば、五蘊とは、身体(色法)と心(心法)である。(五蘊の後ろの四つの項目は、心法である)。
五蘊は苦の真理(苦諦、または第一聖諦)である。
苦諦はずっと存在し続けているが、しかし、通常、我々はそれを体験・体得する事がない。
というもの、それは煩悩(渇愛)が原因で、また、煩悩が我々を創造してもいるからである。我々を創造する所の煩悩は、我々と共に長時間共に、存在し続けているーー我々がそれに対して、何等かのアクションを起こさない限りは。
b)涅槃とはどこにあるのか?
涅槃はあるどこか一つの場所、というものではない:それはどのような場所でもない。
どのような人も、たとえ超能力を有する人であっても、涅槃がどこにあるのかと、答える事は出来ない。
涅槃は天国・浄土でもない;
涅槃は風のようである;
ただ、それの作用によって、それの存在を知ることができる。
涅槃は、非常に殊勝な道刹那の所縁であり、涅槃は、この種の道刹那心の所縁なのである。
凡夫は、煩悩の中に沈潜しているが、しかし、彼がヴィッパサナを修して、実相般若を啓発したなら、彼の心は清浄になる。
これを、道刹那と道果、という。
この両者は、涅槃を所縁としている(16階智の中の14階智と15階智である。)
(1-19につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>