南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」2-23

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

2-3 修法の研究

2-3-1 当該修法と四聖諦との関係

1)苦諦:

我々は、一つひとつの姿勢の中において、苦を見ることができる。そして、発見した苦は、苦苦及び行苦である。この二種種の苦は、我々をして、苦諦(身・心は皆苦である事)を体験・証悟せしめてくれる。

2)集諦:

貪愛は苦の因である。座る色身などなどをしっかりと覚照するならば(<今・ここ>を保持する)、実相般若は生起し、そのことによって、「私が」座っているという邪見を打ち砕くことができる。

3)滅諦:

煩悩が益々少なくなると、我々は益々苦の滅(涅槃)に近づくことができる。ここにあるのは、短時間の暫定的な(彼分涅槃)である(注1)--もし、<今・ここ>において意識を保持する事ができるならば。

また、もし、恒常に保持する事ができるならばーー例えば、それは円覚者の証する所となる(断惑涅槃)。

貪愛を断じ除くだけで、苦痛は止息される。というのも、貪愛は苦の因であり、因を除けば、果も除かれるからである。

我々が四聖諦を証悟したいのであれば、道心(道識)の力を借りなければならない;道心は、煩悩を断じ除くことができる(1-6-1節「実相」、3-1節第14階智、参照のこと);

4)道諦:

念をして身体における各種の姿勢に住せしめ、<今・ここ>を保持する事は、戒・定・慧を修しているのであり、それは将に八聖道または道諦なのである。我々は、智慧でもって、益々苦を体験・証悟することができれば、ますます八聖道を実践する事ができるのである。

2-3-2 各種の苦における四念処の修法

苦苦(身体の痛み、苦痛、苦しさ)

(注1:彼分涅槃(+を得るに)は「身体ー心ー現在法」から始めて、随順智を証悟する事を通して、我見を断じ除くまで、修行を継続する。その時初めて「滅」(涅槃)は、永恒になる(3-1「16階智」参照の事)

色身

行苦(変化している最中のもの、または治するべき痛み等。苦苦比較すると、更に微細で発見しにくい。)

心身

苦諦(純苦)

苦苦は一般的な苦であり、たとえば、各種の姿勢の中にある痛み、苦痛。修行者は、先に苦苦を観照しなければならない。というのも、苦苦は、常に、四種類の姿勢の中に存在していて、非常に発見しやすいが故に。修行者が苦苦を理解した後、身・心は、苦苦によって駆り立てられて、一日中姿勢を変えている事を知ることができる。

行苦は、古い姿勢から新しい姿勢に替えた時、残された苦(+引き継いだ苦)を言う。行苦もまた、色身を維持するために、毎日行わなければならない活動であり、それはたとえば、粗い息、飢えを癒す、呼吸など等である。

苦の相は、身・心の特徴である。それらには、共通の特徴がある:

すなわち、無常・苦・無我である。

これらの特徴は、唯一、実相般若を通してのみ、体験、理解することができる;三法印を体験・証悟したいのであれば、第四階智ーー生・滅随観智ーーを成就しなければならない。

苦諦は第一聖諦ーー苦の聖諦である。苦諦とはすなわち、身・心の事であり、苦諦が体験・証悟される時、四聖諦すべてを体験・証悟した事になる。

(2-24につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>