<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
13.4 上級レベルの観智
引き続き、仏陀は観禅の第三段階を開示する、それは以下の如くである:
「或いは、彼が『有身(=身はあるという事、以下同様)』の正念を建立するのは、ただ更に高度な智慧と正念の為である。」
禅修行者は慎重な態度でもって観察する事を通し、正念を建立する。
彼は思惟する:
「身があるという事、は存在する。
しかし、衆生というのはなく、人間というものもない、
男性というものはなく、女性というものもない、
自我(=私)というものはなく、私に属するものもない、
我はなく、我に所有されるものもない、
他人というのはなく、他人に属するものもない。」
これはどの様な意味であるか?
この部分の經文は、壊滅随感智から行捨智までの、これらの上級レベルの観智のことを言っているのである。
もし、前に説明した方法に従って生滅随観智を修習したならば、その観智が鋭利に変化した時、彼は名色法の壊滅だけに専注する様になる。
徐々に、彼は、色聚が見えなくなり、純粋に究極名色法のみが見える様になり、かつ、彼は名色法の生起が見えず、ただそれらの壊滅をのみ見る様になる。
その時、彼はただ「純粋なる」究極名色法の存在のみを見て、衆生、人間、男性、女性、私、私にしょゆうされる物、他人、他人に属する物は見えなくなる。
彼は色聚さえも見えなくなるのである。
「或いは、彼は『有身』の正念を建立するのは、ただ更に高度な智慧と正念の為である」
「ただ・・・ためである」は目的を指している;
正念を建立するのはその他の目的のためではないというのならば、それでは一体何のためであろうか?
ただただ「更に高度な智慧と正念」の為である。
その意味は:ただ益々広大なる、益々深遠なる智慧と正念の為、である。
言い換えれば、正知と正念の成長の為である。
この様に行法を観照する時、もし、あなたがそれらの壊滅をのみ見るならば、あなたは観智(+自体を)無常・苦・無我として観照しなければならない。
ここでいう所の観智とは、観智が最も顕著な意門心路過程を言うのである。
一つひとつの速行刹那の中において、通常、34個の名法があるが、これらの名法は観智と呼ばれる。というのも、智慧はそれらの指導者であるが故に。
こうしたことから古代の論師たちは、以下の様にいうのである:
「彼は観智でもって所知(=知られるもの)と智の両者を知見する。」(《清浄道論》)
13.5 阿羅漢果について
禅修行者がただ名色法の壊滅をのみ見る時、また、それらの壊滅を無常・苦・無我として観照する時、彼の観智は徐々に成熟する。
観智が成熟する時、五根もまた成熟し、その時、彼は阿羅漢道果を証悟する。彼の心中には、涅槃を目標にした道智と果智が生起する。引き続き修行すれば、最後に彼は、阿羅漢果を証悟することができる。
仏陀は阿羅漢の境地を解説して以下の様に言う:
「彼は独立して安住し、世間の何事にも執着しない」
「彼は独立して安住する」とは、
彼は邪見、渇愛、無明に依存しない安住することがない。
「世間の何事も執着しない」とは、
色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊をば、「これは私である」「これは私のものである」または「これは私の自我(=、私、我)である」などと認定しない。
何故であるか?
というのも、彼の道智は、完全に邪見、渇愛と無明を、断じ除いたが故に。
こうして、彼は、独立して安住し、邪見、渇愛と無明に依存して安住することがない。
以上が、阿羅漢果を証悟するまで、安般念を修行する時の、簡単な説明である。
もし、この様に、系統的に修行ができて、かつ充分な波羅蜜がある時、あなたもまた、今世で、涅槃を証悟することができるのである。
13.6 世間と出世間の四聖諦
次に、仏陀は安般念の一節の為に、以下の様な結論を述べた:
「比丘たちよ。これが比丘が身を身として観じて安住する方法である。」
安般念のこの一節の中において、呼吸を観察する所の正念と、正念の目標は五取蘊は苦諦である、という事である。
無明、愛、取、行及び業という、この五種類の過去因は集諦である。
苦諦と集諦という、この二者が、共に生起しないのは、滅諦であり、これは涅槃を指しており、出世間の滅諦である。
生滅随観智を育成する時、あなたは五種類の因が無余に滅尽するが故に、般涅槃の時、五蘊が無余に滅尽するのを観照することができるが、この二種類の滅は、滅諦と言う。
しかしながら、それらは、生滅智でもって了知した所の世間的滅諦に過ぎない。
あなたは、道智と果智によって、涅槃を証悟する時、あなたは初めて、出世間的滅諦ーー涅槃を了知することができる。
あなたはこの二種類の滅諦を区別しなければならない。
苦諦を了知し、集諦を捨棄し、滅諦を目標とする正道は道諦である。
この中において、世間的道智と出世間的道智を分別しなければならない。
世間道智は、五蘊を見ることができるが、これは苦諦を了知する観智である;
それは苦の因を見ることができるが、これは集諦を了知する観智である;
それはまた、五種類の因が完全に滅尽するが故に、般涅槃の時に五蘊が完全に滅尽するのを見ることができるが、これは滅諦を了知する観智である。
世間道とは、観智の道支について言及しているのみである。
正見は観智である。
正思惟、正精進、正念と正定というこの四支は、それと相応して生起する。
修行する前、あなたは先に持戒しなければならないが、それはすなわち、正語、正業と正命の三支である。
こうしたことから、合計八つの、世間道分があることになる。
禅修行者は、ある時には、観智自身が無常・苦・無我である事を観照しなければならない。
その時、彼は世間的な道諦を了知する。
こうしたことから、世間的正見は世間的四聖諦を了知することができるのだ、と言える。
出世間八聖道分と聖道智、聖果智は同時に生起するが、それらはみな、涅槃を目標とするものである。
その時、正見は、涅槃を了知し、正思惟は心をして、涅槃に投入せしめ、正念は、涅槃に対して、忘れない様にし、正精進は涅槃を了知する事に努力し、正定は、涅槃に専注し、正語、正業、正命という、この三種類の項もまた同時に存在する。
これは出世間的八聖道分である。
なぜ、禅修行者が涅槃を証悟する時、正語、正業、正命という、この三種類の項もまた同時に存在するのであるか?
というのも、聖道智が邪語、邪業、邪命を造(ナ)すことのできる煩悩を断じ除いたが故に、正語、正業、正命というこの三種類の項は、自動的に存在することになるのである。
この様に四聖諦を精勤して修行した後、寂静に到達することができる。
これが、安般念の修行に尽力した比丘の解脱の道である。
(6-55につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>