<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
14 仏陀自身の四聖諦の体験
《転法輪経》の中において、仏陀は彼自身自ら体験した四聖諦を説明している。
彼はどの様に述べているのか?
經文を見てみよう:
「比丘たちよ。
私は『これは苦聖諦である』と思惟している時ーー
これは以前において聞いたことのない法であり、私の心中には目(cakkhu、徹底した見)が生起し、智(ñāṇa)が生起し、慧(paññā)が生起し、明(vijja)が生起し、光(āloko)が生起した。」
「光が生起した」とは、智慧の光の事である。
智慧の光は、どの様にして生じるのか?
仏陀は強調して言う、智慧の光は特に、彼が、涅槃を証悟する時に生じた、と。
彼が、道心(magga-citta)と果心(phala-citta)でもって、 涅槃を証悟した時、この二種類の心はみな、多くの、色聚と呼ばれる微小粒子を生じた。
一粒一粒の色聚の中には、いくつかの種類の色法が含まれており、その中の一種は、色彩(vanna)である。道心と果心によって生じる一粒一粒の中の色聚の中の色彩はみな明るいものである。
また、これらの心生色聚の中の火界は多くの新しい色聚を生じることができる;
一粒一粒の新しい色聚の中の色彩もまた、みな、非常に明るく輝くものである。
火界によって生じる色聚は時節生色聚と呼ぶ。
これら時節生色聚の色彩の光明は、身体内部に散布されるだけでなく、身体の外部にも散布されう。
故に、(+身体の)内外において、みな、光明が生じるのであり、この種の光明は智慧の光と呼ばれる。
仏陀が涅槃を証悟した所の行、彼の心中には智慧の光が生じたのである。
この經の中において「徹底した見」「智」「慧」及び「明智」は同意語である。それはすべて、仏陀が四聖諦を領悟した所の四道智と四果智を指しているのである。
涅槃を証悟する前、菩薩は、七法及び非色七法によって、諸々の行法を無常・苦・無我と観照した。
最後に彼は、縁起支を無常・苦・無我として観照する事に重きをおいた。
菩薩のこの種の観智はまた同じく光明を生じたが、これは仏陀の智慧の光と類似するものである。
仏陀の阿羅漢道智と果智は一切知智を生じる。
一切知智もまた、天神の光明を超越する所の、無量の光明を生じることができる。
同様の道理で、あなたが涅槃を証悟する時、智慧の光が存在するに違いない。
もし、あなたが、すでに涅槃を証悟したと自認ておりながら、智慧の光を見ていないならば、あなたが体験したのは、真正な涅槃ではない。
私は涅槃に光がある、と述べているのではなく、涅槃を体験する道心と果心は、明るい色聚を生じることができる、と言っているのである。
この光明は、智慧の光と呼ばれるが、涅槃の光ではない。
また、あなたは、仏陀の直観した智慧ーー道智ーーを記憶した上で、苦諦を了知しなければならない。
何が苦諦であるか?
仏陀は以下の様に解説している:
「簡潔に言えば、五取蘊は苦である。」
仏陀はすでに、観禅の修行の時に、五取蘊を透視した。
同様に、あなたが観禅の修行をする時、五取蘊を透視しなければならない。
もし、五取蘊を了知することができないのであれば、観智を得ることはできない。
もし、五取蘊の状況を了知しないまま、観禅の修行をするのであれば、あなたの観智は浅薄なものとなり、真正な観智であるとは言えない。
仏陀は五取蘊は苦諦であると了知した。
同様に、もし、あなたがすでに、涅槃を証悟して、ソータパナ等の果位を成就したのであれば、あなたは必ずや五取蘊は苦諦であると了知しているはずである。
もし、あなたがいまだ五取蘊は苦諦であると了知しないのであれば、あたはソータパナまたは何らかの聖者になることはできない。
我々は更に解説を進めたいと思う:
色取蘊を例に取る。
仏陀の教えに基づくと、色法は、色聚の微粒的な形態でもって生起する。
あなたが、系統的に色聚を分析できる時初めて、色聚の中の究極色法を見ることができる。
観禅の修行の時、もし、色聚を見ることができないのであれば、または見た後で、それらを分析することができないのであれば、究極色法(paramattha-rūpa)を照見することはできないのである。
もし、究極色法を了知しないまま、観禅の修行をするならば、それは浅薄な修行法であって、真正な観禅とはなりえない。
(6-56につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
、