パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-52(236/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
13.3.5 因縁生・滅と刹那生・滅
仏陀はまた続けて開示して言う:
「或いは身の生起と壊滅の現象を観照して安住する。」
この経文の句の意味は以下の通り:
あなたは因縁生・滅及び刹那生・滅という、この二者を観照しなければならない。
どの様に観照するのか?
あなたは:五種類の因が生起するが故に、五蘊が生起する;
五種類の因が無余に滅尽するが故に、五蘊が無余に滅尽する事を観照しなければならない。
これを因縁生・滅智見(paccayato udayabbaya ñāṇadassana)と言う。
その後、五種類の因が生起するや否や、即刻壊滅するが故に、それらは無常である事を観照しなければならない;
五蘊もまた生起するや否や、即刻壊滅するが故に、五蘊もまた無常なるものである。
これを刹那生・滅智見(khaṇato udayabbaya ñāṇadassana)と言う。
この段階において、あなたはこの二種類の智見を育成しなければならない。
先に、あなたは、縁起第五法に基づいて、結生色蘊の因縁生を観照し、その後に、般涅槃後の色蘊の因縁滅を観照する、すなわち、阿羅漢道を証悟する時、諸々の因が無余に滅尽し、色蘊が無余に滅尽する事(+を観照するのである)。
この二種類の無余滅尽を照見した後、以下の様に観照を続ける:
1、無明が生起するが故に、結生色蘊が生起する;
無明の無余に滅尽するが故に、般涅槃の後、色蘊が無余に滅尽する;
無明も無常、色蘊もまた無常である。
2、愛が生起するが故に、結生色蘊が生起する;
愛が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;
愛も無常、色蘊もまた無常である。
3、取が生起するが故に、結生色蘊が生起する;
取が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;
取も無常、色蘊もまた無常である。
4、行が生起するが故に、結生色蘊が生起する;
行が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;
行も無常、色蘊もまた無常である。
5、業が生起するが故に、結生色蘊が生起する;
業が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;
業も無常、色蘊もまた無常である。
あなたは、業力を無常として観照してはならない、というのも、業力は、究極法ではないが故に、それはただ行のエネルギーに過ぎないのである。
故に、あなたは行をば、無常として観照しなければならない。
というのも、観智の目標は究極法であるが故に。
同様の観法は、その他の諸蘊の観照にも適用される。
六門心路過程の中の一つひとつの心識刹那には、みな五蘊が存在している。
あなたは同様の方法を用いて、それらを観照しなければならないが、しかし、それらを無常としてにみ観照するのではなく、それらの苦、無我もまた観照しなければならない。
しかしながら、あなたは、一人の良師の下で修行するべきである、というのも、あなたは多くの疑問と困難に出会っても、己自身で解決するのは困難であるが故に。
また、あなたは縁起第一法に基づいて、下記の如くに、観照しなければならない:
1、無明が生起するが故に、行が生起する;
無明が無余に滅尽するが故に、行が無余に滅尽する;
無明は無常であり、行もまた無常である。
2、行が生起するが故に、識が生起する;
行が無余に滅尽するが故に、識が無余に滅尽する;
行は無常であり、識もまた無常である。
3、識が生起するが故に、名色が生起する;
識が無余に滅尽するが故に、名色が無余に滅尽する;
識は無常であり、名色もまた無常である。
4、名色が生起するが故に、六処が生起する;
名色が無余に滅尽するが故に、六処が無余に滅尽する;
名色は無常であり、六処もまた無常である。
5、六処が生起するが故に、触が生起する;
六処が無余に滅尽するが故に、触が無余に滅尽する;
六処は無常であり、触もまた無常である。
6、触が生起するが故に、受が生起する;
触が無余に滅尽するが故に、受が無余に滅尽する;
触は無常であり、受もまた無常である。
7、受が生起するが故に、愛が生起する;
受が無余に滅尽するが故に、愛が無余に滅尽する;
受は無常であり、愛もまた無常である。
8、愛が生起するが故に、取が生起する;
愛が無余に滅尽するが故に、取が無余に滅尽する;
愛は無常であり、取もまた無常である。
9、取が生起するが故に、業有が生起する;
取が無余に滅尽するが故に、業有が無余に滅尽する;
取は無常であり、業有もまた無常である。
10、業有が生起するが故に、生有が生起する;
業有が無余に滅尽するが故に、生有が無余に滅尽する;
業有は無常であり、生有もまた無常である。
同様の観法は、一切の縁起支に適用する。
ただそれらを無常としてのみ、観照してはならない。
それらの苦と無我もまた観照する事。
縁起第一法の中では、無明から死までの12の支があるが、しかし《無礙解道》において、無明から10支をば、生滅智の目標としているが、それは何故であるか?
究極法の生時、住時と壊滅の時、それぞれを、生、老、死と呼ぶ。
生、老、死には三個の段階がなく、それぞれ、一個の段階しか擁しない、それはすなわち、各々、生時、住時、壊滅時である。
究極法が無常であるのは、それらがひとたび生起するや否や、即刻壊滅するからである;故にそれらは三個の段階を持つ。
しかし、生、老、死は、みな、一個の段階に属するが故に、それらを無常・苦・無我として観照してはならないのである。
二種類の「有」(bhava)がある:
業有(kammabhava)と生有(upapattibhava)である。
果報五蘊は生有と呼ばれる。善または不善思、また行は業である;
それらはまた観禅の目標である。
《発趣論》の「業縁」の章に基づくと、思または行のエネルギーを業と呼ぶが、これは観禅の目標ではない。
「思は業である」
これは観禅の目標である。
縁起を更に明確に理解する為に、私は以下の表を用いて、因と縁の関係を明示したいと思う。
三個の表は、三時の中における因と果の間の関係を示したものである。
あなたは縁起支を、あなたが最も遠い一個の過去世を観じることができるまで、無常・苦・無我を観じなければならない。
未来世に関しては、あなたはまた(+上に述べた様に)するべきである。
この様に実践するためには、あなたは先に、出来るだけ多くの過去世の因果を識別しなければならない。
未来世の因果を識別する時、あなたは最も遅い未来世を識別しなければならない。すなわち、般涅槃の時まで。
この様に識別した後でのみ、あなたは理解する事ができる:
「諸々の因が無余に滅尽するが故に、五蘊もまた無余に滅尽する。」
あなたはまた以下の事を理解出来る様になる:
過去において縁法と縁生法があり、未来と現在に置いても、縁法と縁生法がある。これを除いて、有情や人間がいるわけではない。あるのは、一群の行法のみである、と。
行法を観照する智慧は「所知遍知」(nāta-pariñña)と呼ぶ。
この様に諸々の行を観照する比丘は、すでに十力物の教法の中で根を生やしており、すでに立脚点を得ている。
彼は、行くところがすでに決定された小ソータパナ(cuḷasotāpanna)である。
もし、この如くの(良い)気候に恵まれ、導師または禅修の法友に恵まれ、食べ物と四聖諦に関する説法に恵まれるならば、その適切な法によって、一度の座禅・瞑想の内、一節の殊勝な時間の中において、彼は継続的な観智でもって諸々の行法の三相を観照する事を通して、阿羅漢果を証悟する事ができるであろう。(《迷惑氷消》)
縁起表1(略)、縁起表2(略)、縁起表3(略)。。
訳者注:上記、三種類の縁起表は、当ブログでは作成できない為、<菩提樹文庫>PDF版において、管理人様に制作して頂いて後、挿入する予定です。
(6-53につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>