<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
もし、貪愛が完全に断じ除かれたならば、円満なる涅槃に到達し、阿羅漢果を得る事ができる。
もし、修行者が、貪愛の害を体験・体得できないのであれば、彼は涅槃ーーこれによって、苦を滅するーーに到達する事はできない。
涅槃とは:
「貪瞋痴の三毒の止息であり、非因縁法であり、仏教の最高の教えの証であり、仏法の無上正等正覚であり、最後の解脱であり、すべての煩悩と苦痛の息滅である。」
(バンコク大宗派チュラロンコン仏教大学仏学大辞典)
涅槃の特徴は、平静で安らかで、かつ煩悩から遠く離れている事で、涅槃の美しさ好ましさを体験・理解できて、かつ、涅槃を求める人は、世間(五蘊)の苦も体験・体得できる人である。
世間を楽しいと思う人にとって、涅槃は、意義のないものである。
涅槃に到達すれば、再び生まれるという事はなく、それ故に、再び死ぬという事もないし、心身または五蘊を擁するという事もない:(+この時)心身は、もはや、修行の所縁では、なくなる。
涅槃は一個の場所ではないが、しかし、なお、それは存在するものである。
それは風のようで、あなたはそれによる作用を通して、それの存在を認識するしか方法はない。
涅槃は、超凡な、または殊勝な心の所縁であって、この心とはすなわち、道心である。
凡夫は煩悩の中に沈潜しているため、道心は、彼の心の中から生起する事が出来ないーー彼がvipassana を修行する以外は・・・。
というのも、一人の人間が vipassana を修行するならば、心を完全に清らかにする事ができるが、この種の清浄なる心は、道心と言い、道心は、涅槃を所縁とするものである。
涅槃は心ではなく、涅槃は心の所縁であるが、この種の心が、道心と呼ばれるのである。
涅槃を実際に証悟した人は、自知(=己自ら知る)でありーー指導者にそれを、教えて貰う必要は無い。
Vipassana を修行して、実相般若を通して心を道心に転ずる以外、誰も、涅槃に到達する事はできない。
涅槃は苦の止息であり、八聖道を実践する以外、涅槃に到達する方法はないが、涅槃には二種類ある;
1)有餘涅槃(すでに涅槃を証したが、しかし、色身はなお存在している):
これは、煩悩はすでに断じたが、五蘊身はなお、存在している(+という状態である)
2)無餘涅槃(すでに涅槃を証しており、煩悩、五蘊身はみな除かれている):
これは、煩悩はすでに断じられ、色身も死亡した状態。また、般涅槃とも呼ばれる。
(1-45につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>