<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8、厭離随観智
一つひとつの階智(+を昇る時、そ)の階智毎に、智慧はますます強くなる。
この智において、身・心(五蘊)に対する厭離の感覚が生じる。
この事は、先の階智において、身・心の禍を観察した結果であるが、しかし、この種の厭離は、瞋恚の心ではなくて、智慧である。
この種の状況は、如何なる「有」の中にも、たとえ最高の地位ーー国王、または億万の富豪であっても、二度と生まれたくないと(+いう気持ちを)誘発する。
これはまさに、二つの行く道があるような状況である:
一つの暗い道は、引き続き生死輪廻する道で、もうひとつ別の道は、明るい道で、安全で守れらている所の涅槃である。
身・心に対する厭離から、この暗い道には楽趣を見いだせず、涅槃へ通じる明るい道は、非常に人を引き付ける。
この種の、貪愛を放棄したが故に得られる智慧を、厭離随観智と言う。
もし、完全に貪愛を放棄したならば、離染(無執着)と言い、これ(+があれば)解放または解脱へと導かれ、次には、解脱から涅槃へと至る。
この智を成就すると、少なくとも三法印の中の一相を体験・証悟する事ができる:すなわち、無常・苦・無我である。
もし、厭離の感覚に瞋恚心が含まれている場合は、厭離随観智ではなくなる。
そして、瞋恚の心が含まれる厭離においては、三法印を見ることは、できない。
Vipassana によって生死輪廻から脱し、離れたいと考える人で、もし、この智を成就する事ができたならば、すべての煩悩、以前にあった非常に強い煩悩であってさえも、緩くなり、弱くなる。
この智から(+以降)は、道心(注1)によって、涅槃への道へと、導かれる。
この智が厭離する感受は法句経の偈頌に纏める事ができる;
諸行皆無常(諸行は無常)、
智者了知此(智者はこれを知る)、
直道厭離苦(苦を厭離する道)、
此解脱真道(これ、解脱の真の道)。
9、欲解脱智
第七階智からは、身・心の危険と禍を体験・体得する。
第八階智では、厭離が生起する。
今、修行者は身・心に対して、解脱したいという楽欲が充満している:
牢獄に入れられている人が、一分一秒も、そこから逃れたいと、思わない日が無いかの如くに。
第6、7、8階智は相互関係がある。
一つひとつの階智の感受は、益々強くなり、怖畏現起智は、過患随観智を誘発し、次に、過患随観智によって厭離随観智が誘発されるーーその後に欲解脱智が生じる。
その後に、この智(第九)によって、涅槃へと至る:
欲解脱は、(+修行者をして)涅槃に至るために、更に修行に励みたいと思わせるからである。
(注1)涅槃へと導く道心(または道識)とは:厭離、離染と彼分涅槃(ネガティブ・邪見を、ポジィティブ・正見に置き換える方式によって、煩悩を徐々に減らす事)である。。
彼分涅槃の例は、第一階智において、我見が正見にとってかわられる事等。
(3-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>