南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」3-10

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8、厭離随観智

一つひとつの階智(+を昇る時、そ)の階智毎に、智慧はますます強くなる。

この智において、身・心(五蘊)に対する厭離の感覚が生じる。

この事は、先の階智において、身・心の禍を観察した結果であるが、しかし、この種の厭離は、瞋恚の心ではなくて、智慧である。

この種の状況は、如何なる「有」の中にも、たとえ最高の地位ーー国王、または億万の富豪であっても、二度と生まれたくないと(+いう気持ちを)誘発する。

これはまさに、二つの行く道があるような状況である:

一つの暗い道は、引き続き生死輪廻する道で、もうひとつ別の道は、明るい道で、安全で守れらている所の涅槃である。

身・心に対する厭離から、この暗い道には楽趣を見いだせず、涅槃へ通じる明るい道は、非常に人を引き付ける。

この種の、貪愛を放棄したが故に得られる智慧を、厭離随観智と言う。

もし、完全に貪愛を放棄したならば、離染(無執着)と言い、これ(+があれば)解放または解脱へと導かれ、次には、解脱から涅槃へと至る。

この智を成就すると、少なくとも三法印の中の一相を体験・証悟する事ができる:すなわち、無常・苦・無我である。

もし、厭離の感覚に瞋恚心が含まれている場合は、厭離随観智ではなくなる。

そして、瞋恚の心が含まれる厭離においては、三法印を見ることは、できない。

Vipassana によって生死輪廻から脱し、離れたいと考える人で、もし、この智を成就する事ができたならば、すべての煩悩、以前にあった非常に強い煩悩であってさえも、緩くなり、弱くなる。

この智から(+以降)は、道心(注1)によって、涅槃への道へと、導かれる。

この智が厭離する感受は法句経の偈頌に纏める事ができる;

諸行皆無常(諸行は無常)、

智者了知此(智者はこれを知る)、

直道厭離苦(苦を厭離する道)、

此解脱真道(これ、解脱の真の道)。

9、欲解脱智

第七階智からは、身・心の危険と禍を体験・体得する。

第八階智では、厭離が生起する。

今、修行者は身・心に対して、解脱したいという楽欲が充満している:

牢獄に入れられている人が、一分一秒も、そこから逃れたいと、思わない日が無いかの如くに。

第6、7、8階智は相互関係がある。

一つひとつの階智の感受は、益々強くなり、怖畏現起智は、過患随観智を誘発し、次に、過患随観智によって厭離随観智が誘発されるーーその後に欲解脱智が生じる。

その後に、この智(第九)によって、涅槃へと至る:

欲解脱は、(+修行者をして)涅槃に至るために、更に修行に励みたいと思わせるからである。

(注1)涅槃へと導く道心(または道識)とは:厭離、離染と彼分涅槃(ネガティブ・邪見を、ポジィティブ・正見に置き換える方式によって、煩悩を徐々に減らす事)である。。

彼分涅槃の例は、第一階智において、我見が正見にとってかわられる事等。

(3-11につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>