南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」3-9

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

7、過患随観智

第六観智(怖畏ママ)を証悟した時、この智が誘発される。

この智は、まさに、身・心をば、危険、驚異の源であると、見做す。

第一階智からこの智まで、一つひとつの階智は、皆、次の階智の生起を誘発するものである。そして、一つひとつの階智の感受は、徐々に強化・増強されていく。

修行者は、身・心は過患(=禍)であると認識し、もし、身・心がなかったら、最も佳いのにと思う(+ようになる。)

この智は、身・心の五種類の禍を体験・体得する:

1)三界(欲界、色界、無色界)の身・心は、カマドに放り込まれたようなものである。

2)如何なる形式の有(生命)も、11種の火で責められているように思う;生、老、病、死、憂、悲、苦悩等の火である(1‐4‐4‐2節第一聖諦の11種類の苦参照の事)。

修行者は、身・心は禍でり、害のあるものと感じる;すなわち、苦の根源である。

3)無明が身・心の因であると体験・体得する。また、無明の故に、生老病死がある(+と感じ)、故に、無明は禍であると(+体験・体得する。)

4)心・身は、一刻ごとに衰退、変化し、また崩壊している事を体験・体得した。故にこれを禍だと思う。

5)再び生死輪廻する事は禍であり、害があると体験・体得するーー如何なる形式の有(生命)の身・心は、皆、苦の根源であるが故に、次にまた苦果を誘発するだけである(+と思う)。

五種類の禍を体験・体得すると同時に、五種類の功徳も生起する:

1)二度と生まれない事は楽しい。身・心のない処は最も安穏である。

2)二度と何等の「有」に出生しないならば、それは最も楽しい。これは涅槃への道である。

3)心・身を造る因を断じ除くならば、二度と苦の束縛を受ける事はない。

4)心・身が、如何なる「有」の中でも、(+もはや)衰退・変化することがないならば、それは、寂静、安穏の処である。

5)輪廻の中で出生しないのであるならば、それは有益である。そして、それは、楽しさの源泉である。

この智の中において、修行者は、身・心または五蘊は実相(非男、非女)であると体験・体得するが、しかし、この種の実相は、一種の禍である。

この智もまた、非常に強力に智慧であって、貪愛によって顛倒妄想が心の中に生じるのを防ぐことができる。

この智は貪愛の敵であり、貪愛をして、作用しにくくさせる。というのも、五蘊は禍、危険であり、楽趣であると言えない、と言う風に見做されるが故に、貪愛は感受の中で、暫しも止まることができない。

この智の中で、修行者は、正念を善いものとは見做さなくなり、これを三法印(無常・苦・無我)を具足する法であると見做すようになるーーしかし、正念は、その作用を今なお発揮する。

そして、智慧に対してさえも、このように見做すーー好きとか嫌いとかはない、と。

これは、愛または見(邪見)が無くなったために、修行者が、正念と智慧に貪愛を生じなくなった為である。

まさに涅槃を成就しようとする心は、貪愛に対して、敵対的な感覚を生じるほどの修行をしなければならない。その後、ことができない。はようやく、輪廻を脱し離れ、涅槃の道に到達するのである。

言い換えれば、もし、修行者が身・心を常、楽、我、浄であると妄執するのであれば、心は、輪廻から脱し離れ、涅槃に到達して、苦を滅することはできない。

心は、苦を体験・体得しなければならず、苦を体験・体得する(+ことによって生じた)智慧は、修行者をして涅槃を成就せしめる。

涅槃は禅定で証悟する事は出来ない。というのも、禅定は楽顛倒想(五蘊は楽しいという妄執)を生じせしめるためで、それは、身・心は禍であるという真相を体験・体得する事ができない為である。

(3-10につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>