<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仏陀は《相応部》の中で言う:
比丘たちよ。先に禅定を学び、定力があって始めて智慧を有することができる。この智慧(yatarbhutamnana~ママ)は、「名色分別智」から(+始まり)、過去と未来を調べる「縁摂受智」、「思惟智」、「生滅随観智」、「壊滅智」、「厭離智」、「欲解脱智」~「行捨智」(道智果智の前)の智慧の事である。
そうであるから、解脱したいと思うのであれば、先に「止」(禅定)を修習しなければならない。
仏陀の時代には、二種類の禅修行者がいた:
純観行者と止観行者である。
純観行者は、止観行者より、とても多かったのである。
純観行者は、どの様に修習を開始するのか?
経典上で、ある種の尊者は、たった一句の偈誦または一個の開示を聞いただけで、見道と証果に入ったと述べられている。
ある種の尊者は、一個の開示を聞いた後、一、二回の礼拝修行を通して、見道証果している;
ある種の尊者は、5、6年の修行の後、ようやく煩悩から解脱している;
仏陀の息子であったラーフラは7歳で出家して、22歳でようやく見道証果している。
一人一人の証果の時間の長短は各々異なっているが、この違いはどこから来るのであろうか?
仏の世において人として生まれる事ができるということは、すでに非常に難しいことであり、福徳の足りない者は、ちょうど我々の様に、仏陀の入滅後に生まれるよりないのである。
(12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>