<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
記憶もまた、覚照力を形容することができる(=記憶もまた、覚照力であると言える)。
頭から足までの、色身全体(座っている色身など等)においてーー色身は無知(=知る能力を有しない)、心だけが知ることができる(=心だけが知るという能力を有している)という事を、記憶している事(=知っている事)。
注意しなければならないのは、あなたが座っている色身を観照する時、心に、実相を見たい、と言う貪念がないか、どうかという点である。
もし、己自身に、このような貪念がある事に気が付いたならば、少し休んで、貪念の消えるのを待つのがよい。もし、心に実相を見たいと言う貪念がある場合、あなたは実相を見る事ができない。
仏陀は言う、心に貪愛のある人は、実相を見る事ができない、と。
というのも、貪愛は、真理を隠蔽するが故に。
こうした事から、vipassanaを修する人は、根塵が接触する事によって生じる所の、煩悩を断じ除かねばならない。
修行者は、なんらかの種類の根塵が接触する時、身体または心が所縁となっている事を知る必要があるが、これらの事柄を理解したいのであれば、本書の末尾の図2-1「根界摘要」を参照されるのが良い。
(2-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>