<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
感覚とは、あなたが座っている様子を(+自分で)感じる事と、それが一個の、<座っている所の色身である>と感じる事を言い、これがまさに正知である。
しかしあなたが「感覚」とう言葉を使う時、注意を払う必要がある:
もし、人が、身体の感受に落ち込む時、特にその感受が強すぎる時、心は疲れて、<今・ここ>から離れてしまう。こうなれば、貪念で修行している事になる。
また、その上、その時間が長すぎる時、身体的な癖を引き起こすことがある。例えば胸の痛み、窒息するような感覚等など。
重要なのは、座る色身を「製造」してはならない、という事である。ただ座る色身を認識するだけでよい。我々はよく座るが、それを認識していないだけである。
ちょうど、あなたが家にいる時、「あなたが」(+家に居て)「あなたが」座っていると感じてしまうように。
しかし、これがとりもなおさず、煩悩の根源であり、故に、この種の修法は、ただ、智慧で以て、概念を変えて、(+己を)座っている色身と(+見做すように)するのである。
「思う(+考える)」というこの言葉は、通常覚照を形容するのに使用しない方がよいーーというのも、「思う」は、通常は、黙然と関係が深い。色身を感じる事と色身を思うことの違いは、理解できる(=理解しておいた方がよい)。
<冷たい水>を例にとると、我々が冷たい水を思う事(観想する事)と、冷たい水に接触する事または冷たい水を飲むという体験自体とは、完全に異なる、という事である;
<冷たい水>というのは、単に口頭で言われる概念にすぎず、感覚を通して認識された時に初めて、冷たい水とは何かを、真実に知る事ができる。これを<如人飲水冷暖自知>という。
(2-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>