Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~10>「魚」

#10-150604

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 22下段にこんな事が書いてあります。

 

《我々は欲望を欲しない。しかし、欲望がなければ、なぜ修行するのか?我々にとって、修行に対する欲望は必要だ。“欲しい”と“欲しくない”、両者ともに汚染であり、煩悩であり、無明(四聖諦を知らない事~訳者注)でり、愚痴(愚かな事~同左)であるが、仏陀にも欲望はある。欲望は我々の心の中にずっと存在しているが、それはしかし、心の現象の一種に過ぎない。智慧ある人にも欲望はあるがしかし、執着は、ない。我々の欲望は、網にかかった大きな魚を捕まえるかのように――我々はじっと待たねばならない。というのも、大魚が疲労困憊した後でなら、それを簡単に捕まえる事ができるから。しかし、我々は、大魚が網から絶対に逃げ出さないように、魚からひと時も目を離してはならないのである》(「森林里的一棵樹」より)

 

アーチャン・チャーは、煩悩を気づきの力(サティ)で見張り、手放すテクニックを、魚と漁夫の関係、網にかかった魚が疲れるまで待って、その後に一気に捕まえるたとえ話で紹介していますが、タイではもう一つのバージョン、猫とネズミのたとえ話も有名です。

サティが猫で、煩悩はネズミです。最初、生まれたばかりの子猫は非力で、大きなネズミにやられっぱなしですが、あなたがサティの力を育て、猫が大きくなると関係が逆転し、ネズミを瞬時に捕まえる事ができるようになる、という訳です。私はこのたとえ話が好きです。

                   (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)