Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#256、257>問答(15)15-47、15-48<慧学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#256-150929

問15-47 禅師にお尋ねします。止禅と観禅(vipassanā)の修行を終えた修行者は、続いて、その他の法門を修行するのか、それとも止禅と観禅の修行を繰り返すのでしょうか?それとも、自分の好みに応じて、どこかの段階を復習してもよいのですか?何か一定した法則がありますか?慈悲を持って開示して下さい。

答15-47 仏陀の教えに基づけば、阿羅漢果を証悟した時に初めて、観禅の修行が終ったと言えます。あなたはあなたが阿羅漢になる前、不断に止禅と観禅(vipassanā)の修行をしなければなりません。《相応部・七処善経》(Saṁyutta Nikāya、Sattaṭṭhānakusala Sutta)の中で、以下のように述べられています。

一人ひとりの阿羅漢は、皆、常に、三種類の修行法の中の一種類の内に、心を安住させている。すなわち、18界、12処または縁起に依って、行法を無常・苦又は無我であると観照しているのである、と。註釈では、この三種類の修行法を「経常住処」(satata-vihāri)と言っています。また、阿羅漢は止禅と観禅を、共に修行しますが、それはジャーナの安楽住処と果定の中の涅槃の楽を受用する為です。もし阿羅漢が滅尽定に入りたいと思うならば、彼は一定の次第に従って、止禅と観禅の修行しなければなりません。

ある種の修行者は、観禅のすべての重要な課程を練習していますが、それを自分は観禅の修行を終えたのだと公称しています。実際は、そのように言うのは、不正確なのです。彼らは何度も重ねて、止禅と観禅の修行をし、かつ聖典に書かれた教理に従って自己の禅修行の体験を検査しなければなりません。通常は、非常に長い年月をかけて、このように復習し検査しなければ、自分の(進捗度に関する)状況を決定する事はできません。ですから、他人に向かって自己の禅修行の成果をひけらかすのは不適切な行為なのです。通常、観禅(vipassanā)を復習するには、二種類の方法があります。一つは、生滅随観智から復習する方法。もう一つは、自分にとってまだはっきりと観照できていない段階から(戻って)復習する方法です。復習する時の、非常に重要な原則は、必ず、仏陀の教えた正しい止禅と観禅(vipassanā)の修行方法によって、正確に実践する事です。

#257-150929

問15-48 法眼浄とは何ですか?初果とは何ですか?

答15-48 《清浄道論》及びその他の経、たとえば《長爪経》では、法眼(dhammacakkhu)とは須陀洹道(soṭāpattimagga)の事だと言っています。別の経では、法眼とは阿那含道(anāgāmi-magga)の事だと言っています。

《清浄道論》では、コンニャンダ尊者の法眼を須陀洹道智であるとしています。《梵命経》では、梵命バラモンの法眼は、前三個の果智としています。《ラーフラ経誡経》では、ラーフラ尊者の法眼は、四道智と四果智としています。

須陀洹(soṭāpana)は涅槃を証悟した四種類の聖者の内の、一番目に当たります。「須陀」(Sota)は「流れ」という意味で、すなわち、「聖者の流れ」という事です。「阿洹那」(āpanna)とは、「進入する」という意味です。故に、須陀洹の意味は、流れに入る、すなわち、聖者の流れに進入した人、という意味です。

(訳者注。。初果とは何か、と言う質問に対して、禅師は須陀洹という言葉を用いて、説明しています。初果=須陀洹だからです)。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。