(問4-3、内容重複につき省略)
問4-4:
ある老比丘尼が、自分自身を禅の修行者だと言い、よく信者に、禅の修行中に鬼(=亡霊・幽霊、以下同様)が彼女の所へ来る、と言います。
禅師にお尋ねします。
禅の修行者は、どれほどのレベルに到達したならば、鬼が来て、済度してくれ、などと言うのでしょうか?
禅の修行者は、天眼通を得たとき、鬼道の衆生を見ることができるのでしょうか?
答4-4:
鬼道は、非常に低いレベルの衆生で、我々は彼らを助けるのは、非常に難しい。
以前にも話したことがあるが、ある種の鬼だけは、以前の親類や身内の者が彼らに功徳を回向した場合、それを享受することができる。
この種の鬼以外では、我々はまったく助けることができない。それは仏陀であってもそうである。
禅の修行者が、慈心観、または悲、喜、捨心観を修行する時、彼は大まかに鬼道の衆生を見ることができる。
彼は、鬼道の衆生をみる必要があるのである。
というのは、そうでなければ、どのようにして、彼らに慈愛、憐憫、随喜または捨心を届けることができるだろうか?
天眼通を有する人は、鬼道の衆生を詳細に見ることができる。
問4-5:
ちょうど臨終のときに、「有分心」に落ち、かついかなる善、悪の念が生起することがないならば、その有分心があるということが原因となって、どこかの道に生まれ変わる、という事はありますか?
ある道に生まれか変わる時の、その他の要素とはなんですか?
答4-5:
一人の衆生の、その一生の最後の一個の心は、死亡心である。死亡心とは、一種の有分心である。そして、次の世に生まれ変わることになる業とは、臨死速行心の業である。臨死速行心は、一生のうちの最後の心路過程の中に生起する。
仏陀、パーチェカ仏と阿羅漢以外のその他の人々について言えば、臨終のその一刻に、何等の善業または悪業が熟しないということは、あり得ない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>