Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(44-3)(私家版)

“Na tam sajaladā vātā, na cāpi haricandanam. Neva hārā na manayo, na candakiranankari, Samayantīdha sattānam, parilanam surakkhitam. Yam sameti idam ariyam, sīlam accantasītalam.“              “たとえ雨をもたらす雲からの涼風であっても、金檀木であっても、涼やかな珍珠であっても、宝石であっても、明月が照らす柔らかな光であっても、煩悩の灼熱を減し、緩める事はできない。唯一、善く守られた戒のみが、熱く焼ける煩悩を究極的に清涼にする事ができる。 “

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(44-2)(私家版)

“Na gangā yamunā cāpi, sarabhū vā sarasvatī, Ninnagā vāciravatī, mahū vāpi mahānadi. Sakkunnanti visodhetum, tam malam idha pāninam, Visodhayati sattānam, yam ve sīlajalam malam.“ “ガンガー河、ヤムナー河(注1)、サラブー河(注2)、サラワティー河、アチラワティー河(注4)、マヒ河(注3)、マハーナティ河、これらを以てしても、煩悩を清らかにする事は出来ない。唯一、戒水のみが、貪等の煩悩を洗い流す事ができるのである。“

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(44-1)(私家版)

持戒の功徳】                     “Sāsane kalaputtānam, patitthā natthi yam vinā. Ānisamsaparicchedam, tassa sīlassa ko  vade.“ 。。。。。。。。。。            “教法の中にある善男子は、実は、戒を除いて頼りとするものは、何もない。戒徳の量は、誰を以てしても語り尽くせない。“。。。。。。。。。。            この偈頌が言いたい事は即ち:唯一、戒だけが世間、出世間における一切の美徳の基幹であり、その功徳は無辺である、という事である。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-4)(私家版)

食マンゴー者帝思長老(TheroAmbakhādakaTissa)は、飢饉の時に、もう少し住みやすい場所へと、行脚した。旅の途中に疲労して体も弱り、これ以上動けない程になったので、一本のマンゴーの木の下で横になった。。。。           その時、多くの熟したマンゴーが、木から落ちて来た。しかし、与えられないで自分で手に取って食するのは(巴吉帝亜)罪となる為、長老は生命への貪愛を放棄して、飢えを我慢した。。。。。。。         

一人の年老いた在家者が、昏倒している長老を見つけて、マンゴージュースを作って供養した。長老に暫く休んで貰い、その後に、住まいに戻る為に、長老を背負って歩き出した。。。。。。             長老は、彼の善心に深く感動して、観禅を修行し、一切の漏を断じ、信徒の背中に背負われながら、阿羅漢を証したのである。比丘達は、以下の高尚で、聖清な省思を常に思い起こすべし:             “Dhanam caje yo pana angahetu. Angam caje jīvitam rakkhamāno, Angam dhanam jīvitañcāpi sabham, caje naro dhammamanussaranto.“          “ 肢体を保つ為に財産を捨てる事が出来る。生命を保つ為に肢体を捨てる事が出来る。法を念ずる者はこれら一切を捨てる事が出来る(財産、身体、生命)“。。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-3)(私家版)

【戒を守って死んだ比丘】       昔、インドの大道叢林(Mahāvattani)の中に、一群の強盗がいた。彼らは、一人の長老比丘を捕まえて、藤の蔓で縛った。。。    強盗達は、彼らが森林の中に住んでいるのを他人に知られたくなかったので、長老を解放しなかった。。。。。            長老は、本来なら藤蔓を切って逃げる事が出来たが、藤蔓を切るのは罪(巴吉帝亜)になる為、長老は敢えて自らを救う事をしなかった。長老は強盗によって藤蔓で縛られたまま土の上に横たわり、生きる事を諦め、7日間観禅を修して、不還果を証し、死後、梵天に生まれた。。。。          ランカ島(スリランカ)に、同じく羅勒蔓(ローレイマン〜注1)に捕まった長老がいた。この時、突然、森林火災が起きた。彼は本来なら縄を断ち切って逃げる事が出来たが、生きるより戒を守る事の方が重要であると省思して、その様にはしなかった。長老は禅の修行に入り、烈火燃え盛る中で亡くなった。死ぬ時、すでに阿羅漢であった。その後、500人の比丘を連れた長部誦者無畏長老(Thero Dīghabhānaka Abhaya)が発見して、かつ、本人であると認定し、火葬して後、塔を建て、その舎利を供養した。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-2)(私家版)

仏陀を敬い、又人に愛される人間はヤクが尻尾を守り、母鳥が卵を守り、母親が独り子を守るが如くに、善く戒律を守らなければならない。“                 総じて、戒子は上にある偈頌の如くに戒律を持守する事に関して、始終策励し気づき省みなければならない。。。。。。。。。。。。                  “Pātimokham visodhento appeva jīvitam jahe, Paññattam lokanāthena na bhinde sīlasanvaram.“                  “比丘は、不惜生命にてパーティモッカを持守し、仏の制定した戒に違反してばならない。“                  生があれば必定死があり、これからは逃げる事が出来ない。戒を守る事によって死ぬ事は、泰山より重いのであり、来世は必ず善趣に生まれるに違いない。故に、多くの持戒者は、生命を代価として差し出し、最後には阿羅漢を証し、結果、死から遠く離れるのである。。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-1)(私家版)

【如何にして戒を守るか】         善男子は、父母、兄弟姉妹、眷属を遠く離れ、財産と諸々の持ち物を捨て、家を離れて非家者になるが、これはひとえに生死輪廻から解脱する為である。。  彼らは、始終戒徳を守ることに尽力しなければならない。まさに以下の偈頌の述べるが如くに:                             “Kikīva andam, camarīvavā ladhim, Piyamva puttam, nayanamva ekakam. Tatheva sīlam, anurakkhamānā, Supesalā hotha sadā sagāravā.“