南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-29

「激発(=発奮)」の特徴について、《殊勝義註》では、また別の譬えを使って、以下のように解説している。

鰐、怪物、鮫、夜叉などがいる大きな河の両岸のそれぞれに、大勢の人々が立っていてるが、恐ろしくて、河を渡れない。

一人の勇士が河を渡るためにやってきて、剣でもって、それらの危険な動物を取り除き、皆のために道を開き、彼らを対岸に渡れるように、してあげた。

《殊勝義註》は言う。

・・・ゆえに、信は、先導であり、人々が布施をする、持戒する、布薩を守る、修行をする前提となるものである。

上記のようであるから、次のように言うのである:信の特徴は、浄化と激発である、と。

故に、禅の修行の時、三宝または業報の法則などに信心(=確信)がなくてはならない。

非常に重要なのは、仏陀の証悟を信じる事である。

というのも、もし禅の修行者が、この種の正信に欠ける時、彼は禅の修行を放棄するからである;

仏陀の教法を信じるのも、非常に重要である。

すなわち:四道、四果、涅槃及び教理である。

仏陀の教法とは、我々の実践する禅の修行方法と修習の次第(=順序)であり、この段階で非常に重要になるのは、教法への深い確信である。

もし、禅の修行者が以下のように考えたとする:「呼吸する時の息を観察するだけで、ジャーナに至ることができるのだろうか?」または「(+人々が言うように、白い綿のような禅相は取相で、透明な氷の塊のようであるか、またはガラスのようでるときは、似相であるというのは本当であるのか?」

もし、このような疑念が心にあるとき、それらは以下のような見解を導くことになる:

「現代のこの時代、我々はジャーナに到達することはできない。」

この種の見解のせいで、彼は仏法への信心(=確信)が減退し、禅定の修習を放棄することになる。

故に、安般念業処によって、禅定の修行をしている人は、堅固な信心(=確信)をもって、まったく疑いの余地なく、安般念を修行しなければならない。

彼は以下のように考えるべきである:

「円満なる正覚の仏陀の教法を、段階を追って修行するならば、私は必ずジャーナに到達することが出来るに違いない。」

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-30につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>