「激発(=発奮)」の特徴について、《殊勝義註》では、また別の譬えを使って、以下のように解説している。
鰐、怪物、鮫、夜叉などがいる大きな河の両岸のそれぞれに、大勢の人々が立っていてるが、恐ろしくて、河を渡れない。
一人の勇士が河を渡るためにやってきて、剣でもって、それらの危険な動物を取り除き、皆のために道を開き、彼らを対岸に渡れるように、してあげた。
《殊勝義註》は言う。
・・・ゆえに、信は、先導であり、人々が布施をする、持戒する、布薩を守る、修行をする前提となるものである。
上記のようであるから、次のように言うのである:信の特徴は、浄化と激発である、と。
故に、禅の修行の時、三宝または業報の法則などに信心(=確信)がなくてはならない。
非常に重要なのは、仏陀の証悟を信じる事である。
というのも、もし禅の修行者が、この種の正信に欠ける時、彼は禅の修行を放棄するからである;
仏陀の教法を信じるのも、非常に重要である。
すなわち:四道、四果、涅槃及び教理である。
仏陀の教法とは、我々の実践する禅の修行方法と修習の次第(=順序)であり、この段階で非常に重要になるのは、教法への深い確信である。
もし、禅の修行者が以下のように考えたとする:「呼吸する時の息を観察するだけで、ジャーナに至ることができるのだろうか?」または「(+人々が言うように、白い綿のような禅相は取相で、透明な氷の塊のようであるか、またはガラスのようでるときは、似相であるというのは本当であるのか?」
もし、このような疑念が心にあるとき、それらは以下のような見解を導くことになる:
「現代のこの時代、我々はジャーナに到達することはできない。」
この種の見解のせいで、彼は仏法への信心(=確信)が減退し、禅定の修習を放棄することになる。
故に、安般念業処によって、禅定の修行をしている人は、堅固な信心(=確信)をもって、まったく疑いの余地なく、安般念を修行しなければならない。
彼は以下のように考えるべきである:
「円満なる正覚の仏陀の教法を、段階を追って修行するならば、私は必ずジャーナに到達することが出来るに違いない。」
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-30につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>