心の中にどのような境地、境界・・・たとえば、光明、喜悦、または愉快な感覚等が生じようとも、心内では、ただ修行の目標に対する微細な覚受(=知覚と感受)を、自在に、保持するのが正しい。
光明、喜悦や愉快な感覚が、自然に発展するのを、そのままに、任せればよい。
初心者が、定の修習における、正行の部分を実践する時、余り長時間取り組むのは良くない。
一回につき、30 分ほどがちょうどよい。
座禅・瞑想の時間の長短が重点なのではなく、座禅・瞑想の要領を体験し、座禅・瞑想の滋味を味わうのが、良い。
心境の体験と定力の上昇に伴って、座禅・瞑想の時間は、自然と、徐々に増進するものである。
毎回の座禅・瞑想において、心境は、それぞれ同じではありえない。
ある時には、心は容易に静まり、ある時は、心が静まるのが難しい。
定の修習における正しい態度とは、何分かできれば何分か(+で満足し)、(+己に)無理強いしないのが、肝要である。
内心の感受(+力)に関して、敏感であるよう(+心を)育成し、心が、座禅・瞑想を終了させたいと思ったならば、座禅・瞑想を終了するのが良く、無理やり座り続けるのは、良くない。
毎回の座禅・瞑想において、自然で愉快な気持ちで、実践する事。
定の修習において、非常に重要なのは「興味がある事」である。
心をして、自然に、定の良さを味わいせしめ、自然に、定の修習がしたくなり、定の修習が好きになるようにする。
故に、定の修習においては、決して急いだり、焦ったりしてはならず、急いだり、焦ったりすると、思いがけない副作用が出る事が有る。
心をして、求める所無く、悠々として、遊々(=余裕のある様)であればあるほど、定力の育成には、有益である。
また、定の修習の利益について書かれた本や、定の修習の成就者の軌跡が書かれた本を読んだりして、心を定の修習に向かわせる事は、大変に益のあることである。
しかし、だからといって、心を急がせ、速さを競う事は、絶対にするべきではない。
焦れば、かえって進展は遅々とし、取り返しのつかない失敗をする。
古人が言う「ゆっくり修行して、速くに到達する(=急がば回れ)」は、非常に合理的な格言である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-14につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>